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華族たちが集まる昭和初期の落合地域。 [気になる下落合]

相馬邸黒門番所長屋.jpg
 先日、1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、日本デイゼル工業と安達堅造邸Click!をしらみつぶしに探していたところ、昭和期に入ってから落合地域へ転居してきている華族の多いことに気がついた。それは、明治以来の大名や公家筋などもともとの華族や、明治期以降に功績のあった人物に付与される“新華族”の別を問わない。
 以前、拙ブログでは落合地域とその周辺域に集まる徳川家Click!とその関連家系について書いたことがあるが、それは同家が元をただせば姻戚同士だからで、近くに住みたくなるのはあたりまえだから自然の流れのように感じていた。だが、華族が落合地域とその周辺域に集まるのはなぜだろう? 考えられる理由は、3つほどあるだろうか。
 まず、理由のひとつは関東大震災Click!で市街地の大半が壊滅すると、自邸を郊外へ移転する家々が続出した。華族も例外ではなく、転居先を検討する際に山手線の駅が近くて交通の便がよく、住宅地の開発が盛んな豊多摩郡落合町とその周辺に目をつけたという経緯だ。目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村Click!など、他には見られない当時としてはオシャレで最先端の街づくりが行われていた点にも注目したかもしれない。
 理由のふたつめは、いわゆる「堂上華族」と呼ばれる近衛邸Click!や、日本でもっとも古い大名(鎌倉幕府の守護含む)である相馬邸Click!、あるいは徳川邸Click!など、目白崖線沿いには華族の屋敷Click!が明治期から建てられつづけていたので、「どうせなら“同族”が多い地域へ引っ越そう」と考えたのかもしれない。目白崖線の東側は、明治期からの開発で住宅地にあまり余裕はないが、西側の落合地域ならまだ広めの宅地が残っており、かつリーズナブルに屋敷を建てられる……という算段もあっただろうか。
 理由の3つめは、しごく単縦に華族の子弟や孫たちが通うことになる、近衛篤麿Click!が生前に計画し目白駅の東側へ移転させた学習院Click!へ、徒歩でも通える立地条件だったことだ。これらいずれかの理由から、あるいは複合する理由から、落合町やその周辺域へ転居してくる華族が、昭和期に入ると急増しているとみられる。
 たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同時点で5家の新たな転入華族が紹介されている。同書から、少し引用してみよう。
  
 従四位 子爵 板倉勝史  下落合五三四
 当家は板倉周防守重宗の次男伊予守重形の後裔、重形兄重郷より分れて上州安中三万石の城主となる、それより十代を経て先代勝観氏明治十七年子爵を授けらる、氏は其の二男にして明治二十一年十月を以て生れ大正十二年家督を継ぎ襲爵被仰付、先是明治四十四年学習院高等科を卒業さる。
  
 ちなみに、板倉家は大正末にはすでに下落合534番地(現・下落合3丁目)に転居してきており、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に収録されている。おそらく、関東大震災の直後に市街地から下落合へ転居してきているのだろう。ちょうど、雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!(1934年より徳川義親邸Click!)の道路をはさんだ南隣りの位置で、目白聖公会の北側(裏)にあたる角の敷地だ。板倉邸前の道路を120mほど西へ歩けば、大久保作次郎アトリエClick!にたどり着く。
 以下、『落合町誌』の「人物事業編」からつづけて引用してみよう。
板倉邸1926.jpg
板倉邸跡.jpg
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富小路邸跡.jpg
  
 正四位子爵/貴族院議員 富小路隆直  上落合四六五
 当家は関白左大臣二条道平の男左衛門佐道世の後、道世分家を創立なし其邸富小路に在るを以て家号となす、夫より二十代を経て先代敬直に至り明治十七年子爵を授けらる、(中略) 大正六年東京帝大法科大学政治科を卒業し現時貴族院議員の任に在り。夫人ふさ子は長野県士族鳥羽林太氏の二女にして養子文光氏は子爵三室戸敬光氏の二男である。
  
 武門出の板倉家とは異なり、典型的な公家出身の華族だ。上落合465番地(現・上落合2丁目)は、現在の上落合中通りに面した地番で、同地番から西へ伸びる路地を入れば、40mほどで右手(北側)に上落合467番地の大賀一郎邸Click!が、その少し奥の同469番地には神近市子邸Click!と同470番地の鈴木文四郎邸Click!が、道路を90mほど進んだ左手(南側)には同470番地の吉武東里邸Click!が、また道路を抜けてT字路の正面には同670番地の古川ロッパ邸Click!が建っているような一画だった。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照しても、同地番に収録された7軒(そのうちの1軒は上田邸と記載されている)の住宅には、それらしい大きめな屋敷が見られないので、富小路隆直邸はふつうの一般住宅だった可能性が高い。
  
 正四位男爵/貴族院議員 今園國貞  下落合六七一
 当家は内大臣勸修寺の末家芝山の支流である、先君國映公は宮内大輔芝山國典の二男にして幼児興福寺に入り同寺中賢聖院の薫職たりしが、明治維新と共に勅命に依りて復飾し堂上の格を賜はり姓を今園と称す、同八年華族に列し同十七年男爵を授けらる。(中略) 現時貴族院議員にして公正会に属す、傍ら日本大学講師たり、(後略)
  
 今園家も、藤原氏の流れをくむ公家が出自の華族だ。下落合671番地(現・中落合2丁目)は、現在の国際聖母病院Click!の西端に位置する敷地で、不動谷(西ノ谷)Click!の谷戸沿いに南へ長く伸びる第三文化村のエリアだったとみられる。三間道路をはさんだ西隣りには、下落合667番地の吉田博・ふじをアトリエClick!があり、北隣りには佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!で最大サイズの「テニス」(50号)Click!をプレゼントした落合第一尋常小学校Click!の教師・青柳辰代邸Click!があった。下落合661番地の佐伯アトリエからは、南へ直線距離でわずか60mほどのところだ。
 だが、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、下落合671番地には150~200坪の宅地がふたつ描かれているだけで住宅は採取されていない。下落合へ短期間だけ住み、その後すぐに転居したか、あるいは誤りだらけな同図の採取漏れの可能性がある。
今園邸1938.jpg
今園邸跡.jpg
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渡邊邸松村邸跡.jpg
  
 従四位子爵 渡邊英綱  上落合五八六
 当家は渡邊半蔵守綱の子重綱の五男、丹後守吉綱の後裔にして吉綱秩禄を分たれて徳川氏に仕へ泉州伯太其他一万三千五百二十石余を領す、夫より九代を経て先代章綱氏明治十七年子爵を授けらる、氏は先代寛綱氏の二男として明治二十七年三月を以て生れ、大正三年家督を相続し、襲爵被仰付。夙に東京農業大学を卒業す。(後略)
  
 武門の出である渡邊家の上落合586番地は、厳密にいえば1935年(昭和10)以降は消滅してしまった地番だ。現在の道筋でいうと、山手通り(改正道路)の下ないしは東端になっており上落合2丁目と3丁目の中間にあたる敷地だ。『落合町誌』の当時は、ちょうど落合富士Click!(大塚浅間古墳Click!)のすぐ北東あたりに位置する地番だった。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」を見ると、すでに道路工事の計画予定が明確化していたのか、家屋が立ち退いたあとで上落合586番地は欠番となり、空き地が拡がっているような状態だった。渡邊家も、工事計画の進捗でどこかへ移転しているのだろう。
  
 正四位勲四等/鉄道技師 男爵 松村務  上落合六〇六
 本家は元金澤藩士にして先考務本明治初年身を陸軍に投じ累進して陸軍中将に陞る、其の間各重要軍職に歴任し、西南戦役、日清戦役に出征して功あり、殊に日露役には第一師団長として旅順攻囲軍に参加し偉功を樹て、同廿八年一月陣中に戦没す、同四十年十月当主先功に依りて華族に列せられ男爵を授けらる。男は其の二男として明治十七年三月の出生、同四十三年東京帝大工科大学土木科を卒業し鉄道院に奉職す、(後略)
  
 明治以降に功績があった、元軍人のいわゆる“新華族”の家系だ。上落合606番地もまた、先の上落合586番地とともに山手通り工事にひっかかっているが、1938年(昭和13)の「火保図」には地番が残されている。だが、すでに松村邸は見えず同地番には瀧沼邸と富士アパートの2軒が採取されているので、1935年(昭和10)前後には転居しているのだろう。
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 その後、落合地域には皇族や華族の屋敷が建ちつづけるが、文字数がオーバーぎみのためこのぐらいに。上記に挙げた5人の華族は、30~40代の壮年ばかりなのも大きな特徴のひとつだろうか。いちばん年上が、『落合町誌』(1932年)発刊の時点で満50歳の男爵・今園國貞だ。華族の中でも、比較的若い後裔の世代が落合地域に転居してきており、東京市街地の屋敷にこだわらず、当時はいまだ郊外の新興住宅地だった落合地域へ転居しても、それほど抵抗感がなかった世代……ということにもなるだろうか。

◆写真上:下落合の相馬孟胤邸Click!にあった、黒門(正門)Click!脇の番所長屋。
◆写真中上中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合534番地の板倉勝史邸と、板倉邸跡の現状(道路右手)。正面に見える緑は、徳川邸(旧・戸田邸)の敷地。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合465番地の富小路隆直邸あたりと、上落合中通りから路地をはさんだ465番地を見た現状。
◆写真中下中上は、「火保図」にみる下落合671番地の今園國貞邸跡と、今園邸跡の現状(道路右手)。「火保図」には建物が採取されておらず、1938年(昭和13)には転居しているか採取ミスの可能性が残る。中下は、「火保図」にみる上落合586番地の渡邊英綱邸あたりと、上落合606番地の松村務邸界隈。1938年(昭和13)には改正道路(山手通り)計画が具体化しており、両邸ともすでに立ち退いている可能性が高い。現状写真では、渡邊邸は画面手前で、松村邸は山手通りの中央あたりになっている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、下落合と上落合の華族邸一覧。

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