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まったく面白くない住谷磐根の武蔵野散歩。 [気になる本]

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 少し前、上落合に住みマヴォClick!へ参加していた住谷磐根Click!についてご紹介したが、彼は1970年代の半ばに武蔵野各地を散策・取材し、1974年(昭和49)12月から1978年(昭和53)12月にかけて、地元の武蔵野新聞にエッセイを連載している。
 わたしが高校時代から学生時代にかけ、武蔵野Click!(おもに小金井と国分寺)を歩いていたころとちょうど時期的に重なるため、連載エッセイをまとめてのちに出版された書籍『点描 武蔵野』が手に入ったので、じっくり読むのを楽しみにしていた。同書は、挿画も住谷磐根が担当しており、画文集として当時の懐かしい情景が画家の目をとおして描かれていると思ったからだ。ところが、とんだ期待はずれだった。
 住谷磐根は、当時の「武蔵野」Click!と認識されていた東京近郊の街、すなわち武蔵野市にはじまり昭島市まで18自治体を取りあげ、それとは別に「井の頭公園」「深大寺」「多磨霊園」「大国魂神社」「北多摩の基督教」「多摩地区の郵便」と6つのテーマについて記述している。東京の市街地からそれほど離れていない、当時は宅地開発が盛んだった東京近郊の街々を対象に、武蔵野の面影を訪ねて歩きまわる内容だ……と想像していた。
 わたしは岸田劉生Click!曾宮一念Click!木村荘八Click!織田一磨Click!山田新一Click!小島善太郎Click!鈴木良三Click!村山知義Click!などが書いた、それぞれの画家の視点から風景やテーマ、生活などを見つめるようなエッセイを期待していたのだけれど、住谷磐根が描く「武蔵野」はそれらとはまったく無縁だったのだ。たとえば、わたしが1970年代によく歩いた小金井市についての文章を、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』から、少しだけ引用してみよう。
  
 甲武鉄道(現在の中央線)が開通し、大正十五年(一九二六)武蔵小金井駅が開設されて、東京との交通が便利になり、人口も年月を追って増大し、昭和三十九年九月には東小金井駅が新たに出来てなお一層便利になった。/昭和三十三年十月、市政がしかれ、市の木を「欅」、市の花を「桜」と定めるなど、自然に対する市民の心のよりどころを提唱し、近代思潮に乗って学園都市文化施設の誘導にも力を入れている。/かつて第一次世界大戦の後、貫井北町北部一帯の広大な土地に陸軍技術研究所が出来て、(中略) 終戦後その跡地には郵政省電波研究所が、昭和二十七年八月発足し、(中略) 総て現在及び将来に向って最大限に国民の福祉に活用するための研究がなされている。
  
 わたしがいいたいことは、すでにみなさんにもおわかりだと思う。このような内容は、別に住谷磐根が書かなくても当時の自治体が発行するパンフや市史、今日ならWebを参照すれば即座に入手できる情報であって、わざわざ画家が書く文章世界とは思えない。住谷磐根が、実際に武蔵野のどこを歩き、なにを見て、どのような体験をし、そのモチーフやテーマからなにを感じとり、それについてどう思い、なにを考えたのかが知りたいのであって、自治体が発信する行政報告書の概要を読みたいのではない。
 ところが、ほぼすべての街々についての記述が、このような表現の繰り返しなのだ。連載が武蔵野新聞なので、記事を書くようなつもりで文章を書いたものだろうか。あるいは、編集部から主観をできるだけ排し、「客観的」な記述にしてくれというような注文でもあったのだろうか?(画家の署名入りエッセイなのでそうは思えない) 同書の「あとがき」では、「行く先々で先ず市役所の広報部と教育委員会を訪ねていろいろ伺」ったと書いているが、そもそもアプローチからして画家らしくないと感じるのはわたしだけではあるまい。
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 最初は几帳面な性格から、街の成り立ちや概要から書きはじめないと筆が進まないのかと思ったのだが、ほとんどがこのような記述で埋められているのを読み、僭越ながら彼は情報として得たことをソツなくまとめて記述するのは得意かもしれないが、人間の生活や自己の内面を描く文章表現には、まったく不向きなのではないかと思うにいたった。すなわち、自身が感じたことや体験、思ったこと、そこから想像したことなどの主観がともなわない、まるで学校の“お勉強発表会”のような記述のエッセイなど、いっちゃ悪いが上記の画家たちの文章に比べ、ほとんど意味も価値もないに等しいと感じる。
 それでも、実際に地域に住む人々に出会って話を聞いている箇所は、かろうじてエッセイかルポのようなニュアンスを感じとることができる。わたしが学生時代の1978年(昭和53)に、わずか2ヶ月だけ公開されたときに訪れた(その後非公開となり、翌1979年10月から再整備ののち改めて公開)、滄浪泉園をめぐる文章だ。当時の滄浪泉園は、旧・三井鉱山の社長だった川島家の所有地(別荘)であり、1975年(昭和50)の時点では高層マンションの建設計画が具体化しはじめていたころだった。同書の「滄浪泉園」より、少し引用してみよう。
  
 何とか中へ入ることは出来ぬものかと再び道路の方へ戻った。自動車の頻繁に通る道路に面した方は四階建てのマンションが並んで、この林の一部は既に建物会社に譲渡してしまった様子であった。/マンションの傍の林の中へ通ずる門があって、試みに小門の方から入って行くと、石畳を踏んだ奥に、川島家の身寄りと感じられた住宅があって、そこの若い奥さんに、滄浪園(ママ)に就いてお聞きしてみた。/「近来色々な人が訪ねて見えて、写真を撮らせて欲しいとか林の庭園を見学したいと申込まれるが、いまでは一切お断りしています。」とのお言葉で、筆者も礼を尽して頼んでみたけれど、折悪しく未亡人の川島老夫人は九州方面へ旅行中で、その老婦人(ママ)―母と呼んでいた―が、「在宅ならば或いは話が分るかと思われますが、不在でお取計らいは出来ません」と筆者に気の毒そうに申されるので、残念ながら退去することにした。
  
 わたしが初めて滄浪泉園を訪れたのは、保存が実現して公開された1978年(昭和53)の秋なので、いまだ当初の川島別荘の面影が色濃かったころだ。わたしの印象では、庭園というよりも武蔵野原生林そのままの風情をしており、ハケClick!の中腹や下に横たわる湧水池は、人手が加えられていない原生のままのような姿をしていた。現在のように、本格的な公園あるいは庭園のように整備されるのは、1979年(昭和54)以降のことだ。
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 住谷磐根は、滄浪泉園の一帯を「文士・大岡昇平の『武蔵野夫人』のモデルになった所」と規定して書いているが、わたしが訪れた当時の風景や印象からしても、大岡昇平Click!が描写する大農家だった「『はけ』の荻野長作」の家Click!とその周辺の風情とは、かなり異なった印象を受けている。むしろ、1974年(昭和49)ごろの高校時代にさんざん歩いた、「ハケの道」沿いの雑木林に見え隠れしていた、ちょうど旧・中村研一アトリエあたりの国分寺崖線Click!沿いが、『武蔵野夫人』の物語にピッタリの風情だった。
 わたしがハケの道を歩き、手に入れたばかりの一眼レフカメラにトライXを入れてせっせと撮影していた高校時代(実は武蔵野らしい風情の地域Click!を歩いたのは、親に連れられた子ども時代Click!からずっとなのだが)、大岡昇平が同窓生だったハケの富永邸に寄宿していたころと、周辺の景色や風情にいまだ大きなちがいはなかっただろう。野川沿いに、国分寺・恋ヶ窪の姿見の池Click!(日立の中央研究所敷地内で入れなかった)から、ハケの道を小金井の武蔵野公園あたりまでエンエンと歩きつづけると、中村研一アトリエが建っていた界隈が物語の舞台にもっともふさわしく思えた。事実、戦地からの復員後すぐに大岡昇平が暮らしていた場所(富永邸)は、同アトリエのすぐ東側だ。
 『点描 武蔵野』の「あとがき」で、住谷磐根はこんなことを書いている。
  
 武蔵野の一隅保谷市に移り住むことになった。近隣の人達とは朝となく昼となく、手まめに道路を清掃し気持よく、近くには芝生畑、栗林、梅林、奇石名石を沢山集めた庭石屋や、既に風格付けの出来た植木を仮植している大きい植木屋があり、玉川上水の暗渠の丘が、真すぐに小金井、小平、青梅方面に伸びていて、四季を通じて散歩に好適であり、西方に麗峰富士山が眺められ、落日には紫紺のシルエットで鰯雲を引いた姿は、情緒を誘う住みよい所である。現在では練馬区大泉辺りから保谷、田無、三鷹、調布の方へかけての線を引いたそのあたりが、東京を背にして西方が武蔵野のおもかげの多い位置ではないかと感じられる。
  
 このような文章を、「あとがき」ではなく冒頭の「はじめに」に書いて、それぞれの地域や街の描写、人々の生活や暮らしの様子を画家の目ですくい取り、綴ってもらいたかったものだ。当局や公的機関が発表する情報をそのまま伝えることを、昔から新聞では「玄関取材」または「クラブ記事」というけれど、そうではなく自由に表現できるエッセイなのだから、画家である住谷磐根の目に、それぞれの地域や街に展開する武蔵野の“現場”がどのように映ったのかを、そしてどのような印象や想いにとらわれたのかを書いてほしかったのだ。
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 著者が「あとがき」で挙げている大泉や保谷、田無、三鷹、調布などの街々には、まがりなりにも武蔵野の面影を知るわたしにしてみれば、すでに市街地であって武蔵野の風情はほとんど見られない。『点描 武蔵野』が出版された時代から、すでに40年余がすぎ去った。

◆写真上:滄浪泉園(旧・川島別荘)にある、ハケの中腹にひっそりと横たわる湧水池。
◆写真中上は、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』()と著者()。は、挿画の「滄浪泉園」と「国分寺」。
◆写真中下:住谷磐根『点描 武蔵野』が出版されたのと同年の1974年(昭和49)に、わたしが小金井の国分寺崖線で撮影したハケの道沿いの風景。
◆写真下は、同じくハケの道沿いの風景。は、金蔵院の墓地周辺に展開していた武蔵野原生林。は、恋ヶ窪にある湧水源の姿見の池から流れでる野川の源流域。
おまけ
 国分寺・恋ヶ窪の日立中央研究所内にある、2014年(平成26)に公開された姿見の池。野川の湧水源であり、大岡昇平が目にした風景がそのまま残されている。この池から流れでた湧水が、上掲のモノクロ写真に写るような野川の源流域を形成していた。近年、研究所内で立入禁止の姿見の池に代わり、観光客用に新「姿見の池」が設置されているようだ。
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