東京府知事だった千家尊福の仕事。 [気になる本]
かなり前、出雲国造(こくぞう)Click!の千家尊福(たかとみ)Click!が東京府知事に就任していたのを記事にしたことがある。彼は、明治政府に「武蔵一宮」と規定された大宮・氷川明神社(元神:スサノオ/地主神:アラハバキClick!)のある埼玉県知事や、江戸期における徳川家Click!(世良田氏Click!)の拠点であり出雲社・氷川社が散在する静岡県知事をつとめたあと、江戸東京総鎮守の神田明神Click!(元神:オオクニヌシ=オオナムチ/地主神:平将門Click!)がある東京府知事と、出雲Click!とのつながりが深い地域の知事を歴任している。
その後、千家尊福の息子で詩人の千家元麿Click!が、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に自邸Click!をかまえて住んでいた関係から、拙サイトでもしばしば記事に取りあげてきたが、父親についてはあまり触れてこなかった。先年、水谷嘉弘様Click!を介して村上邦治様より、著書『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年)をお贈りいただいた。(たいへん貴重な高著を、ありがとうございました。>村上様)
明治以降、あらゆる神道の教導禁止(布教禁止)の政府布告から、神主は境内の掃除と社(やしろ)の維持管理、そして奉じられた神への祈祓ぐらいしか仕事がなくなってしまった。また、薩長政府による「神社合祀令」のもとで数多くの地主神Click!を奉る社(やしろ)が廃止となり、“日本の神殺し”政策Click!が全国各地で盛んに行われていた時期でもある。千家尊福は、出雲国造や出雲大社宮司から出雲大社教の教主となり、いわゆる伊勢神道中心の正教一体化(戦後用語の「国家神道」化)に強く反対して、貴族院議員となったのちは政治家として神道とは別の地道な活動を展開し、政治から身を引いたあとは東京鉄道株式会社の社長として、東京の私営路面鉄道を東京市へ移譲する仕事をやりとげている。
きょうの記事は、貴族院議員となり同時に各地の府県知事や、司法相などを歴任した政治分野での活動や業績などについては、上記の『千家尊福伝―明治を駆け抜けた出雲国造―』をぜひ参照していただくことにして、東京府知事だった時代や世相にはどのような案件あるいは課題が存在し、千家府知事はどのように仕事をこなしていたのか、その一端を地域中心のミクロな視野からほんの少しだけ探ってみたい。
千家尊福が東京府知事に就任していたのは、1898年(明治31)から1908年(明治41)のおよそ10年の期間だった。当時、府県知事を10年も勤めた人物はおらず、たいがいは2年前後のキャリアで別のポジションに異動するのが常だったが、彼は組織をうまく掌握して統率するリーダーシップに優れていたらしく、東京府自体が彼を手放さず、また政府側もその安定した自治実績により、彼を首都東京から異動させたがらなかったらしい。
千家尊福の府知事時代には日露戦争が勃発し、かろうじて日本は勝利したものの、政府は戦費調達用に発行した外債の償還が困難となり、もはや破産寸前の状態にあった。また、「圧倒的な勝利」と煽情的な報道をつづけたマスコミのせいか、ポーツマス条約に反対する市民が日比谷焼き討ち事件を起こすなど、東京には不穏な世相がつづいていた。東京府も、また中央政府もこれらの困難や課題をうまく調整・解決し、乗り越えられるのは千家尊福しかいないと見ていたようだ。ちなみに、当時の知事は今日のように選挙で選ばれるのではなく、政府による任命制だった。
国立公文書館の資料を参照すると、千家尊福が東京府知事の在任中にこなしていた、多種多様な業務の様子が見えてくる。まず目につくのは、東京近海で遭難した難破船や行方不明者の捜索と、難破船から逃れたとみられる乗組員たちの保護および送還だ。当時は、民間の船舶が正確な海図を備えていることはほとんどなく、東京近海では座礁・沈没事故が多発していた。また、今日のように気象情報がないので、荒天で遭難する船舶も多かったらしい。千家府知事の在任中は、イギリスやロシア、あるいは東南アジアから来航した船舶とみられる乗組員たちが、東京府所轄の島々などに上陸・避難している。
そのような船舶には、海外からの輸入品などが積まれていたが、それら物品の輸入可否を政府とともに審議するのも、東京府の重要な仕事だった。また、船の難破でときどき漂流民が上陸していた、東京からはるか南に点在する小笠原諸島(無人島:ぶにんじま)の正確な測量も、陸軍参謀本部の陸地測量部Click!とともに東京府の業務のひとつだった。また、東京府では不足する市街地に近い用地を拡げるために、このころから東京湾の埋め立て事業も盛んに行われている。市街地では、より広い用地を確保するため東京市や政府と協議しながら、千代田城Click!の桝形(石垣)Click!の撤去と外濠の埋め立て事業Click!も進められた。
千家府知事は、さまざまな建設事業にもかかわっている。市街地化が進んだ地域から火葬場の郊外移転や斎場の新設、府立墓地Click!の新設や拡張造成、千葉県との境を流れる江戸川へ新たな橋梁の建設、政府と協議のうえで各国の公使館や大使館を建設するための敷地確保、電燈線・電力線Click!や電話線Click!の系統網の整備、上野公園で予定されていた東京勧業博覧会の準備と日露戦争による中止、そして再び開催のための準備など、おそらく政府や東京市と協議のうえ決裁しなければならない案件が目白押しだったとみられる。
変わったところでは、府立中学校の体育用に陸軍の旧式銃器(村田銃など)の払い下げ申請や、同中学校による横須賀造船廠(のち横須賀海軍工廠Click!)と停泊する軍艦の社会見学(遠足)申請、日露戦争がらみでは東京湾で行われる海軍凱旋観艦式や陸軍凱旋祝賀会への出席、いまだ東京市の一部で上水道として支管や枡Click!が使われていた、神田上水Click!の廃止と東京府への払い下げ問題、東京各地に残る官有地の府有地への移譲など、明治以降に活発化した教育や都市の近代化への案件が多々見られる。
また、東京府内へのキリスト教会設置も、当時は府や市による認可制だったため、出雲大社の宮司で神道家だった千家尊福は、複雑な思いで次々と申請される設置許可の決裁書類に署名・捺印していたのではないだろうか。それらキリスト教会との関連が深い、東京府内の居留地Click!に住む滞日外国人のうち、租税を払わず滞納している人物から税金を取り立てるのも、府知事の重要な業務のひとつだった。
おそらく知事机には毎日、決裁しなければならない書類が山積みにされていたとみられるが、書類に署名・捺印するだけであとは部下に委任してなにもしない、当時の一般的な知事と千家尊福が大きく異なるのは、自身が疑問をもったテーマやなんらかの対立で紛争がらみの案件があると、自身で現場に足を運び当事者たちから直接事情を聞いては判断基準にしていたことだ。登庁時と退庁時のほかは、知事室や庁内から一歩も出ない知事が一般的な時代に、千家府知事の仕事のしかたは破天荒かつ異例だった。
府知事の姿などかつて一度も見たこともなかった東京市民たちは、あちらこちらの現場で調査・取材をする知事の姿を見かけるようになり、薩長の藩閥政府に猛反発をつづけていた江戸東京市民も、神田明神の主柱であるオオクニヌシの故郷Click!からやってきた千家尊福には親しみをおぼえたにちがいない。東京府内で厄介な行政課題が持ちあがると、多くの現場では千家尊福の姿が見られるようになった。それが対立的な案件であれば、双方から事情聴取をしてできるだけ公平な決裁をするようにしていたようだ。
府知事に在任中、千家尊福の頭をもっとも悩ませたのは東京市街を走る私営電気鉄道の統合問題だった。その様子を、いただいた上掲の『千家尊福伝』から引用してみよう。
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東京で路面電車の開始・普及が遅れたのは、利権を巡り多くの会社で出願競争が起こり、政府が調整出来なかったことが最大の原因であった。馬車で運行していた東京馬車鉄道(改進党大隈系牟田口元学)、東京電気鉄道(大物実業家日本製粉創業者雨宮敬次郎)、東京電車鉄道(三井系藤原雷太)、東京自動鉄道(政友会星系利光鶴松)、川崎電気鉄道(三菱郵船系)の五社が乱立、一方東京市においても市営化の構想を持っていたため、なかなか認可することができなかった。/この五社から電気鉄道、電車鉄道、自動鉄道の三社がまず合併し、東京市街鉄道(街鉄)となった。馬車鉄道は東京電車鉄道(電車、東電、電鉄などと言われた)に、川崎電気鉄道は東京電気鉄道(外濠線)に改称した。三社に集約されたことで、ようやく路面電車の認可が下り営業を開始、各社路線を伸長させた。
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だが、上記3社の間にはなんの協業体制も連絡もなく、東京市内には繁華街中心の統一性のない路線が次々に敷設され、また運賃の値上げ問題も大きな課題となっていった。こうした混乱状況の中、千家府知事と実業家の渋沢栄一は3社合併を勧奨し、1906年(明治39)には合併して東京鉄道(株)が誕生している。だが、新会社の社内にはまったく統一性がなく、経営陣は派閥による内部抗争を繰りひろげ、労働組合さえ別々の活動をするありさまで、内情は3社別々のままだった。株主総会では、会場で殴りあいや刃傷沙汰が発生するなど、混乱はずっと尾を引くことになってしまった。
西園寺公望内閣の瓦解で、司法大臣を1年間だけつとめた千家尊福だが、1909年(明治42)に意外な話が持ちこまれた。10年間におよぶ東京府知事の経験を活かし、民間企業である東京鉄道の社長に就任してくれという、政府と東京市、さらには東京鉄道の役員会からの要請だった。企業経営などしたこともない彼は、おそらく面食らっただろう。だが、東京の路面電車を円滑に敷設し、運賃問題なども解決しながら公営化をめざすのは、自身が府知事だったころからの宿願だった。千家尊福は社長を引き受けると、府知事時代の仕事のしかたを踏襲し、社内の対立する組織や役員同士の融和や公平な決裁、政治家から持ちこまれる利権がらみの困難でややこしい事業は、交渉のフロントに立って対応した。
面倒でむずかしい仕事や困難な案件を、社内外でも率先してこなす千家社長を見ていた役員や社員たちの間には、少しずつ一体感が生まれていったようだ。特に重要案件に関しては他人まかせにして責任を回避せず、自ら現場に出かけて粘り強く営業・交渉をつづける社長の姿を見て、社員たちの間に信頼感と社内統一の気運が生じていったのだろう。
こうして、府知事時代から懸案だった路面電車の東京市電化は、1911年(明治44)8月に東京鉄道社長の千家尊福と東京市長の尾崎行雄Click!との間で、ついに売買契約と引き継ぎ業務が完了した。東京鉄道の本社入口にあった「東京鐡道」の看板が外され、跡には「東京市電氣局」の看板が架けられた。ようやく東京市電(のち東京都電)が誕生したが、千家尊福は看板を見ながらすでに次のことを考えていた。キリスト教や新興宗教の流行で、徐々に衰退していた出雲大社教を盛り返すために、全国各地を巡教・講演してまわる計画だった。
◆写真上:王子駅方面へ向かい、飛鳥山電停の近くを走る都電荒川線のレトロ車両。
◆写真中上:上は、村上邦治『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年/左)と晩年の千家尊福(右)。中左は、1901年(明治34)に神田上水の廃止について時期尚早とした千家尊福の意見書。中右は、1904年(明治37)に“麩”の輸入に関して出された取りはからい要望書。下は、1885年(明治18)に撮影された小笠原諸島父島の街並み。
◆写真中下:上は、1905年(明治38)に東京湾の横浜沖で催された日露戦争海軍凱旋観艦式。中は、1907年(明治40)に開催された東京勧業博覧会のポスター。下は、1887年(明治20)ごろに撮影された旧・新橋駅前で待機する東京馬車鉄道。
◆写真下:上左は、1899年(明治32)に千家尊福から出された市街鉄道建議書。上右は、1908年(明治41)に西園寺内閣が作成した千家尊福の司法大臣任命奏上書。中は、上下2枚とも1900年(明治33)に作成された東京市内電気鉄道布設願摘要一覧。このリストは申請企業の一部にすぎず、数多くの企業が電気鉄道事業への参入を申請していた。下は、大正初期に撮影された東京鉄道から移行したばかりの東京市電。