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アナキスト望月百合子という生き方と思想。 [気になるエトセトラ]

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 アナキストだった石川三四郎の娘である望月百合子Click!も、新宿地域とのつながりが深い。石川三四郎は、先ごろの記事で戦後に沖野岩三郎Click!らと鼎談しているのをご紹介したばかりだ。生まれてすぐに母親を亡くしたため、彼女は甲府の望月家へ預けられて望月姓を名のるようになった。4歳のとき、すでに柏木地域(現・北新宿/西新宿)にも住んでいたようだが、アナキストが多く住んでいた「柏木団」Click!のエリアだろうか。
 小学校を卒業すると、上級学校へ進学する際に「将来お嫁に行くのは嫌だ」といったため、養家では教師にしようと師範学校への進学を奨めている。望月百合子は、このころからすでに「お嫁さん」は「家」制度の奴隷Click!だという強い認識があったようだ。「お嫁さん」になるなら、いつでもイヤなら出ていける女中のほうがはるかにマシだと考えていた。大正初期の当時、女性が就職できる職業といえば、教師や看護婦、産婆(助産婦)、電話交換手、女工ぐらいしか選択肢がなかった。
 それを聞いた実父の石川三四郎が、友人で女学校の校長をしていた宮田修を紹介している。当時の師範学校は、「忠君愛国」教育が中心だったから、それでは娘のためにならないと考えて成女高等女学校(現・成女学園)を紹介している。
 1992年(平成4)に、新宿区立婦人情報センターが望月百合子にインタビューした記録が残っている。翌1993年(平成5)刊行の『新宿に生きた女性たちⅡ』から引用してみよう。
  
 成女ではその頃(大正三・一九一四)校長の宮田修先生が、週一回倫理の時間を教えていらした。女だからといって奴隷になるのではなく、人間として自分で考え、自分で道を拓いて行くように、人は皆平等であると教えた。ご自分でも部落出身の娘さんと結婚しようとして、そういう差別をなくしたいと考えたけれど、親戚中の反対に合ってやめになったそうです。そういう話を倫理の時間にされた。/平塚らいてう(ママ)さんが雑誌『青踏』を出された時(明治四四年・一九一一)世間から随分爪はじきされた。その時宮田先生は平塚さんのことをほめて雑誌に書いたんです、たった一人ほめた。その関係で卒業生の原田琴子さんは『青踏』に参加したんです。(中略)/一級下には堺利彦さんの娘さんで真柄さんがいて、堺家の集まりにさそわれて行くと、東大の「新人会」の学生さんたちが議論していて、ご家族の皆さんと一緒で大変楽しい雰囲気でした。
  
 このとき、望月百合子が通学するために下宿していたのは、松井須磨子Click!島村抱月Click!がいた芸術座の裏にある親戚の家(横寺町)だった。一時期、結核とカリエスで休学するが、恢復したあと成女高等女学校へ復学している。また、このころ通学途中でストーカーに遭い追いかけられたことが契機で、同校の寄宿舎に入居した。
 成女高等女学校を卒業すると、望月百合子は学校の推薦で読売新聞社へ入社している。最初に任されたのは「名流婦人訪問」記事欄で、柳原白蓮Click!や吉岡弥生らのインタビュー記事を書いたが、文学担当に変わってからは有島武郎Click!芥川龍之介Click!与謝野晶子Click!らを取材している。当時、女性の新聞記者は着物姿だったが、活動しにくいので途中から断髪して洋装に変えている。大正前期での断髪・洋装はめずらしく、モガClick!が登場するのはもう少し先の時代だ。新聞記者は月給が25円と高給だったが、ヨーロッパの視察から帰った父親の石川三四郎に、「学問をしないで記者を続けても駄目」だといわれ、読売新聞社は2年ほどで辞めている。
 1920年(大正9)に、女子聴講生制度Click!をスタートさせた早稲田大学に入学すると、文学部で東洋哲学を専攻している。3年後の1922年(大正11)に留学生試験に合格し、望月百合子は農商務省に蜂蜜のサンプルやレポートを毎月提出することを条件に、10円/月の給費を同省から支給されている。「留学」と名がついているが、農商務省の海外リサーチ要員といった役目を負わされていた。彼女は、その給費でフランス語を学ぶと、パリのソルボンヌ大学へ入学して西洋史を専攻している。
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 1925年(大正14)にフランスから帰国すると、東京郊外の北多摩郡千歳村八幡山(現・世田谷区八幡山)に、父・石川三四郎とともに「共学社」を創立して農業のかたわら自給自足の生活をはじめている。この選択は、人間は土を離れては生活できないため、農業を中心に全員が平等で生活するコミューンを実践するという、アナキズム的な理想生活の発想をベースにしていた。父親は、そこに集まった仲間たちに講義をしたり、彼女は雑誌の編集をしたりしながら農作業をつづけて暮らしている。ちなみに、この八幡山の家には、のちに小林多喜二Click!の妻になる下落合に住んだ伊藤ふじ子Click!が下宿している。
 千歳村八幡山のすぐ西側は同村粕谷だが、拙ブログでは吉岡憲Click!の故郷として登場している。また、同村八幡山のすぐ北側、松沢村松原には「少年山荘」(山帰来荘)と名づけたアトリエに竹久夢二Click!が住んでおり、望月百合子は「共学社」で穫れた野菜を配達していた。洋装に洋靴姿で、秋野菜を配達にきた望月百合子に会った夢二は、彼女をモデルに絵を描き「土つきし靴のいとしさよ烏ぐもり」の俳句を添えてプレゼントしている。また、フランス刺繡の室内履きとドイツ製のエプロンも出してきて、「エプロンの中に野の花を摘んで入れなさい」などと、これも彼女にプレゼントしてくれた。これは若い女と見ると、誰彼かまわずつい甘い言葉をかけてしまう夢二の性癖Click!からではなくw、アナキストの石川三四郎との交流で彼女とは小さいころからの顔なじみだったのだ。
 1928年(昭和3)に、望月百合子は都新聞に掲載された蔵原惟人Click!の論文に反論し、いわゆる「アナボル論争」の口火を切っている。当時の彼女の思想について、中京大学現代社会学部紀要(2007年)に発表された、志村明子『戦前の女性雑誌から探る女性アナーキストたちの言論世界』が的確にまとめているので、少し長いが引用してみよう。
  
 この論文(第2期「女人藝術」1928年10月号/望月百合子『強権か自由か』)は前掲の「婦人解放の道」(同1928年7月号)同様に、普通選挙後に盛り上がってきている女性参政権運動への批判的見解をアナーキストの立場から明らかにするものである。また、市民派女権主義者批判のみならず『女人芸術』(ママ)関係者の中のロシア支持者たち、つまりマルクス主義女性たちに対する批判を明らかにする内容も併せて著述されている。アナキスト(ママ)たちは、1920年代当初に、プロレタリア独裁のソビエトに対する幻想をすてマルクス主義派と厳しく対立するようになった。/望月が『女人芸術』に寄せた論文がもう一本ある。「女人の社会的使命」(同1929年6月号)である。この論文中、近年、社会改造論が論議されているが、そこに強権主義の萌芽があるということを問題視している。彼女はアナーキストとして強権には否定的だからである。社会改造論は絶対的権威の実現という妄想につかれて突進していくが、そこに強権主義の萌芽があると望月はみなす。彼女は、有史以来の幾度の社会改造も真の自然的解放をもたらしていない、絶対観は強権思想を生み、強権思想は保守と反動となる繰り返しであると捉える。望月は強権の存在を「無」にしたアナーキズムの自由社会を提唱する。それは連帯的自治の社会である。(カッコ内引用者註)
  
 では、その「強権」支配下でどのように「連帯的自治の社会」を構築していくかの、政治的・社会的プロセスや具体的な方法論の欠如、および肝心な変革主体の不在を「ボル」派からすぐにも突っこまれそうだ。
 あるいは、単に危険思想視された左翼思想はもちろん、資本主義政治思想の自由主義者まで弾圧しはじめる日本政府と、どう対峙していくのかが不確かな主張の中で、革命後に早々「強権主義」の最たるものを招来したロシア=スターリニズムについて、「強権思想は保守と反動となる繰り返し」という視座は、まさに的確な予言をしているといえるだろうか。
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 長谷川時雨Click!『女人藝術』Click!では、望月百合子の論文の合い間に下落合の五ノ坂上に住んだ同じアナキストの高群逸枝Click!も、『新興婦人の道―政治と自治―』(1928年9月号)を発表している。志村明子の論文より、もう少し引用してみよう。
  
 高群によれば、解放とは強権を脱して自治を、被支配を排して支配なき状態を意味するのである。真の男女同権は、女権主義者の主張のように強権的、人為的であった従来の男性本位の意識ならびに生活態度を女性も同じように踏襲することではなく、新興者としての女性が必然的に伴っている女性本来の自然的、自治的生活態度ならびに意識へ、男性をきたらしめることである、とする。新興意識とは、自治意識のこととされる。自治とは、相互の協力形式による自由社会を指す。/クロポトキンが『相互扶助論』などの著書で示したように、高群も村落共同体の農民の生活に相互扶助や相互支持の習慣や風習を見いだしている。高群は、来るべき理想の新社会は、農工合体の共産村落を単位とする連合世界であるべき、という。共産の単位、共有の単位は、きわめて自然的な、そして小範囲なものであればあるほど、不合理の度合いが少ないとするからである。
  
 どこか、1960年代のヒッピーやコミューン志向の新興宗教的な匂いすら感じる世界だが、この主張もまた高群が多用する「自然的」とは、現社会で形成された個人的主観ではなく、一般化(普遍化)するとどのような状態であるのかが、すぐにも「ボル」派のみならず論理的思考の人物からは、突かれそうな文脈の“隙間”ではある。
 やがて、「ボル」派が主流を占めるようになる『女人藝術』を去った望月百合子は、高群逸枝や平塚らいてふ、住井すゑたちと女性誌『婦人戦線』を創刊している。このあと、1930年(昭和5)に彼女は「共学社」仲間の古川時雄と結婚し、四谷区新宿1丁目58番地(現・新宿区新宿1丁目/翌1935年に千駄ヶ谷へ移転)に「ふらんす書房」を開店している。同書房は、岩波書店Click!と同じく書店と出版社を兼ねた店舗で、2階では英仏語を教える語学塾を開設していた。望月百合子は、ふらんす書房の代表として多彩な本の出版や、『トロットと猫と犬』(1935年)など代表的な翻訳本を次々と刊行していくことになる。ちなみに、『トロットと猫と犬』の挿画は、平塚らいてふの愛人で画家の奥村博士が担当している。
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 余談だが、新宿通りに面したふらんす書房のちょうど裏あたり、新宿御苑に面した側のビルに「現代ぷろだくしょん」の事務所があった。大学を出て間もない1983年(昭和58)ごろだったろうか、当時の上司に連れられて一度訪問したことがあり、映画「はだしのゲン」Click!3部作の監督・製作者の山田典吾・山田火砂子夫妻にお目にかかった憶えがある。ちなみに、いまの現代ぷろだくしょんは中井駅のすぐ南、上落合2丁目にオフィスがある。

◆写真上:北多摩郡千歳村八幡山に、実父と「共学社」を設立した望月百合子。19世紀の1900年(明治33)生まれの彼女は、21世紀(2001年)まで生きた。
◆写真中上は、成女高等女学校(現・成女学園)の正門と旧校舎。正門前の記念プレートは、1896~1902年(明治29~35)までここに住んだ小泉八雲Click!の旧居跡。は、望月百合子の実父・石川三四郎()と竹久夢二()。
◆写真中下は、「共学舎」で父親と農業や学習、翻訳などをしていた千歳村八幡山時代の望月百合子で、大正中期とは思えず現代女性のように見える。は、ごく近くの松沢村松原にあり「共学社」に野菜を注文していた竹久夢二の「少年山荘」(山帰来荘/1924年ごろ撮影)で、当時の千歳村とその周辺の風情がうかがえる。屋敷林の繁る庭にいるのは、当時、夢二の愛人だったお葉(永井兼代)Click!だろうか。下左は、1928年(昭和3)刊行の望月百合子『強権か自由か』が掲載された「女人藝術」10月号で表紙は吉田ふじをClick!下右は、1930年(昭和5)に望月百合子らが創刊した「婦人戦線」3月号。
◆写真下は、「女人藝術」でボルシェヴィズムに対しアナキズムの論陣をはった望月百合子()と高群逸枝()。中上は、1940年(昭和15)の「四谷区市街全図」にみる「ふらんす書房」位置。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみるふらんす書房界隈。下左は、1934年(昭和9)刊行の田中令三『晒野』(ふらんす書房)の奥付。下右は、1935年(昭和10)出版のリシュテンベルジェ・作/望月百合子・訳『トロットと猫と犬』(ふらんす書房)。

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箱根土地の社員と結婚した女性の話。 [気になるエトセトラ]

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 先週、拙ブログへの訪問者数がのべ2,400万人(2,400万PV)を超えました。昨年の後半は3ヶ月余にわたり更新をサボったにもかかわらず、いつも拙い記事をお読みいただきありがとうございます。また、11月24日で拙サイトがスタートしてから丸19年(2004年11月24日)が経過し、今週から20年目に入りました。今後とも、よろしくお願いいたします。
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 下落合の目白文化村Click!や東大泉の大泉学園Click!、谷保の国立(くにたち)学園都市Click!などを開発した、箱根土地Click!の社員と結婚した新潟県出身の女性の記録が新宿区に残っている。野崎かんという方は、女学校を卒業したあと17歳で、国立に住んでいた親戚を頼って東京にやってきており、その家で3年間をすごしている。
 同郷の越後高田の出身で、箱根土地へ勤めていた夫とは国立の米屋を介して知り合い、1934年(昭和9)に結婚している。そして、国立駅の駅前広場に面した箱根土地本社ビルの近くに建っていた社宅へ入居している。彼女がちょうど20歳のときだった。ちなみに、この社宅は箱根土地が野崎夫婦のために用意した、一戸建ての平屋だった。
 1934年(昭和9)ごろの国立といえば、関東大震災Click!で大きな損害を受けた東京商科大学Click!(現・一橋大学)が、ようやく1927年(昭和2)に神田区一ツ橋から移転をはじめて7年目にあたり、箱根土地では同地の宅地販売に全力を傾注していた時期と重なる。だが、大学施設は徐々に移転を完了しつつあったものの、東京市街地から離れた国立の宅地は思うほどには売れず、箱根土地では赤字つづきで社員給与の遅配などが発生していた。
 先年の記事でもご紹介したが、SP用の国立絵はがきClick!を数多く制作しては、市街地の見込み顧客先にあてて大量に配布していたのはこのころのことだ。野崎かんの夫は、国立駅前の本社勤務ではなく、麹町区丸の内ビルディング8階の箱根土地(株)丸の内出張所に勤務していたので、国立分譲地開発におけるマーケティングの最前線で仕事をしていた人なのだろう。上記のSP絵はがきの制作にも、直接かかわっていたのかもしれない。
 当時の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、野崎かん『小滝橋通りの近くで』から引用してみよう。
  
 社宅は会社(国立駅前の箱根土地本社)のすぐそばにあって、一戸建ての平屋でした。うち一軒だけだけだったんです。箱根土地会社は貧乏会社でしてねえ。月給なんてもらわない月もあったんですよ。その代わり、堤さんの家に行けば社員は家族同様。第二次世界大戦のころは土地がたくさんありましたでしょ、だから畑で野菜をたくさん作っていて、うちの主人たちが行くと、あがってご飯食べろっていってね、帰りには、野菜なんかどっさり持たせてくれるんです。ほんとに不自由しませんでした。(カッコ内引用者註)
  
 堤康次郎Click!のことだから、社員には「貧乏だ、どうしよう、カネがない」などといいながら、余剰金を別の事業へ投資していた可能性も多分にありそうだけれどw、さまざまな当時の証言類を勘案すると、おしなべて箱根土地の社員は大切にされていたようだ。それは堤自身というよりも、その家族や上長たちがつくりあげた社風のようなものが、大正期からつづく箱根土地には残っていたのかもしれない。
 この文章にも書かれているが、太平洋戦争がはじまっても東京商科大学の周囲はポツポツ教師や職員用の住宅が建ちはじめていたけれど、かんじんの国立分譲地全体の敷地にはほとんど住宅が建っておらず、「土地がたくさんありましたでしょ」の状態で、いまだアカマツの林がつづく昭和初期からの新興分譲地の風景そのままだった。これは敗戦後も、そのままの風景がしばらくつづくことになる。
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 「国立から丸の内まで通うのが遠くてたいへん」と、箱根土地社員の奥さん自身がこぼすとおりw、市街地からウンと離れた国立から丸の内へ出るには、当時の中央線の電車(1929年より電化)に乗り、エンエンと東京駅まで乗りつづけなければならない。また、時間帯によっては国分寺で車両を乗り換える必要があっただろう。いまでこそ、国立駅から東京駅までは50~55分で到着するが、当時の鉄道ダイヤや電車のスピード、各駅の停車時間などから考慮すれば、たっぷり2時間近くはかかりそうだ。
 おそらく、夫の側から「遠くてたいへんだからイヤだ」といいはじめたのだろう。結婚してから3年後の1937年(昭和12)に、野崎夫妻は淀橋区(現・新宿区の一部)の柏木(現・北新宿)に借家を見つけて転居している。彼女へのインタビュー内容からして、中央線・大久保駅のすぐ西側、小滝橋通りに面した借家だったと思われる。何年かのちに、小滝橋通りに架かる中央線のガード近く(南側)にある、柏木教会の隣りに引っ越している。当時の小滝橋通りの界隈について、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 国立から丸の内まで通うのが遠くてたいへんだったので、この辺に家を捜していたんです。今の三和銀行のところが薬屋さんで、その隣が人力屋さんだったんです。その人力屋さんが大きくおやりになっていて、だんだんと自動車を置くようになったんです。ハイヤーみたいなのをね。こちら側の小西金物屋さん、大塚さんの魚屋さんはそのころからあったんですよ。その隣の西野布団屋さんの奥さんがいいかたでしてね。柏木教会の隣の家が空いてるから聞いてごらんなさいって教えていただいて、そこに戦争中、強制疎開で壊されるまでいたんです。/強制疎開で家が壊されるとき、柏木教会の植村環先生が若松町のほうに教会の方の大きなお屋敷があるから、そこへ移りなさいっておっしゃってくださったんですけどね、どうしてもこの柏木から離れたくなくて……。
  
 野崎夫妻は、小滝橋通り沿いの柏木地域がよほど気に入ったのだろう、同地域で大きめな空き屋敷を見つけて住みつづけている。確かに、新宿駅へ出るのも大久保駅からひとつなので、住み慣れると買い物やどこへ出るにも便利な立地だ。
 戦時中に行われた柏木地域の建物疎開Click!は、新宿駅方面から山手線沿いにのびてくる「山手線沿線其ノ四」線Click!のことで、山手線つづきの中央線沿いに建つ住宅群も壊して、幅50mにわたる防火帯をつくる破壊工事のことだ。「疎開」という名前がついてはいるが、もちろん家を追われて壊される住民への補償はほとんどなかった。
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 上落合の南に隣接した柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の、ちょうど中央線をはさんだ北側の小滝橋通り沿い、すなわち淀橋市場Click!淀橋区役所Click!豊多摩病院Click!陸軍科学研究所・技術本部Click!などがある一帯は、1945年(昭和20)4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!で大半が焼失していたが、野崎夫妻が住む屋敷のある中央線の南側=柏木4丁目は、いまだ爆撃を受けていなかった。
 だが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!は、焼け残った山手線西側の住宅街への徹底した絨毯爆撃だったので、野崎邸もついに罹災している。おそらく夫の仕事の都合なのだろう、野崎家は疎開することなく柏木へ住みつづけていた。
  
 五月二五日の空襲のときも、ここにいました。上の子どもたちは、私の母の妹が十日町の方に住んでいたので、そこに疎開させていたんですが、二人の小さな子がいっしょにいましたので、一人をおんぶして、一人を乳母車に乗せて、ガードの横の草原のところに逃げました。そのうちに淀四小学校が焼け出して、ガードがトンネルみたいになって火がはいって来るんですよ。ガードの真下にいたんですが、こわくて向こう側へまた逃げました。五丁目(現北新宿四丁目)はもう四月一三日の空襲で焼けていたんですが、まだ残っていた青物市場の国技館の屋根みたいになっているのが、みんな火がついてバリバリ、バリバリ燃えて……。鉄骨だけが残ったんです。八時ごろになって家のところに戻ってくると、すっかり焼けてしまって、物置に買い込んであった練炭や炭がボウボウ燃えてました。
   
 この証言により、上空から見るとピラミッドのような淀橋市場の屋根は、二度の山手空襲Click!で焼け落ちて鉄骨だけになっていたものの、戦後早々に復旧されていた様子が1947年(昭和22)の米軍による空中写真からも確認できる。東京の西部一帯では、卸(市場)や流通のカナメとなっていた拠点なので、行政が復興を急いだものだろう。
 野崎一家は、当初は小滝橋通りにある柏木教会のすぐ北側100mほどのところ、中央線の高架近くにあった原っぱから延焼の具合を見てガード下へと避難しているが、大火災で空気が急激に膨張して起きる火事嵐Click!により、炎の先がガード下をくぐって吹きこんできたため、淀橋区役所や淀橋市場の北側(柏木5丁目)へと逃れている。戸山ヶ原Click!陸軍科学研究所・技術本部Click!は、いくら空き地や森林が残っていても戦時中は立入禁止だったので、野崎一家は比較的空きスペースが多かった淀橋市場側へ逃れたのだろう。
 国土計画興業(旧・箱根土地)は、府立(1944年より都立)第六中学校(現・新宿高校)の校舎が建物疎開で解体されるとき、その部材を丸ごと購入していた。同社では、その膨大な部材を罹災した社員の家屋再建に提供している。
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 野崎かんの夫は、手先が器用な人物だったらしく、戦後まもなく同社のトラック数台で運ばれてきた材木を使って、柏木に6畳×2室に各4畳半の台所と食堂、それに風呂場と便所に玄関をつけた家を建ててしまった。同家には、1955年(昭和30)まで住むことになる。

◆写真上:2005年(平成17)に撮影した淀橋第四小学校。旧・淀橋第四尋常小学校(戦時中は淀橋第四国民学校)で、もうすぐ創立104周年を迎える。
◆写真中上は、1927年(昭和2)ごろに箱根土地のチャーター機が国立駅上空から南を向いて撮影したとみられる空中写真。は、同時期に国立駅の西側上空から撮影したとみられる写真。は、国立駅前の水禽舎と箱根土地本社ビル(右手)。
◆写真中下は、戦後の1947年(昭和22)に米軍機から撮影された国立地域。開発から20年以上が経過しているが、アカマツの疎林が拡がり住宅はあまり建っていなかった。は、1936年(昭和11)撮影の柏木地域。は、現在も同位置にある柏木教会。
◆写真下は、建物疎開が行われる直前の1944年(昭和19)に撮影された柏木地域。は、小滝橋通りに架かる中央線ガード。は、いまも散見される戦後まもない住宅建築。

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「僕」って何?&「ざんす」が山手言葉だって? [気になるエトセトラ]

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 先日、何気なく点いていたTVを観ていたら、NHKの「教養番組」(?)でにわかに耳を疑う、信じられないようなウソを臆面もなく話す学者のコメントが放映されていて唖然としたことがあった。それは、東京方言の「ざんす」に関する解説だった。
 その学者によれば、東京の「ざんす」言葉は、江戸期はおもに芸者が用いた言葉であり、明治期になってから芸者を妻にする明治政府の要人が続出したため、彼らが住む山手地域に「ざんす」言葉が周囲にまで拡散して浸透し、最近まで「ざんす」「ざんしょ」言葉を話す女性が東京の山手の街にはみられた。したがって、「ざんす」言葉は乃手を中心に拡がった女性が用いる山手言葉だ……云々。おまけに、「ざんす」言葉がつかわれたエリアとして、旧・東京15区Click!の西側(千代田城Click!の旧・乃手側)が、グリーンに塗られている地図フリップまで用意して見せていた。あんた、マジClick!ざんすか?(爆!)
 どこの大学だか知らないが、この学者センセの解説はほとんどすべてがウソ八百だ。「ざんす」言葉は、確かに江戸期からの芸者がつかったけれど、芸者だけでなくその周辺にいた幇間や置屋、待合の仲居など花柳界Click!の関係者は男女を問わずにつかっている。しかも、当時は洗練されて聞こえたらしい「ざんす」言葉が浸透したのは、武家や明治以降は要人たちが多く住んでいた旧・山手ではなく、当の芸者たちが住み置屋が点在していた町場のほうがもっと早く、昔から盛んにつかわれていただろう。NHKの番組担当者は、なぜ容易に取材できるファクトチェック(ウラ取り)をしないのだろうか?
 別に江戸期からつづく、古い(城)下町Click!の家庭へ取材する必要などない。明治期でも大正期でも、とにかく戦前には東京に根を張って暮らしていた町場(神田でも日本橋でも銀座でも深川でも本所でも浅草でもどこでもいい)にある家庭の生活言語へ取材さえすれば、「そういや、うちの親から上の世代がよくつかってたよ」とか、「祖父(じい)さんや祖母(ばあ)さんが、ざんす言葉をよくつかってたぜ。懐かしいな」とか、「ざんす言葉は戦後も、1980年代ぐらいまでずっとつかわれてたわよ」などの答えが返ってきて、すぐにも学者の解説が不可解でおかしいことに気づいただろう。当該番組のNHKスタッフに、戦前から東京に住む家庭の出身者がひとりもいなかったのだろうか?
 おそらく、この学者センセは図書室か資料室にこもりながら、江戸東京語辞典かなにかで「ざんす」がもともとは芸者言葉だったことを知った。そういえば、明治政府の要人たちは芸者を多く妻に迎えている、だから彼らが住んでいた旧・乃手地域で「ざんす」言葉が盛んにつかわれて拡大・普及したのだ……というような、東京の地元から見ればまったくトンチンカンな(現場でファクトチェックをしない)、町場から乖離した三段論法で自身の「学説」を組み立てたのだろう。図書室か資料室にこもるのをやめ、いまでは「下町」と呼ばれる地域の、戦前からつづく家庭の生活言語を何軒か取材すれば、すぐにも自身が空想で組み立てた三段論法が、穴だらけだったことに気づいたはずだ。うちの親父Click!も、「ざんす」言葉をたまにつかっていたが、ここは同じNHKで過去に放送されたコンテンツをもとに、この学者センセの「学説」のおかしさを検証してみよう。
 1970年代に米国ユニヴァーサル映画が制作したTVドラマに、『刑事コロンボ』というのがあった。NHKで放映されるときには小池朝雄が声優をつとめ、「うちの上さんClick!がね~」が流行語になったあの刑事ドラマだ。東京出身の翻訳家・額田やえ子は、ピーター・フォークが演じるコロンボのざっかけない性格を表現するため、彼のセリフにあえて東京方言の(城)下町言葉Click!を採用して翻訳している。「あたしにゃチリ(ビーンズ)をひとつ」とか、「あたしゃ拳銃を持たない主義でねえ」とか、戦後も町場では普通につかわれていた(城)下町言葉が随所に登場している。拙サイトでは日本橋浜町出身の曾宮一念Click!や同じく通油町出身の長谷川時雨Click!が日常的に話していた、あのしゃべり言葉だ。
 そんな中で、コロンボが犯人のトリックやアリバイを崩して追いつめるときの常套句として、右手の人差し指を立てながら「よござんすか?」(=いいですか?/よろしいですか?/よろしゅうございますか?)のフレーズを多用していたのを、思い出される方も多いのではないだろうか。コロンボが口にする「よごさんすか?」「よござんす」「よござんしょ」は、わたしの親世代まで日常的につかわれていた男女を問わない(城)下町地域の生活言語だ。だからこそ、額田やえ子は同ドラマの随所で飾らない「ざんす」言葉を、コロンボ(小池朝雄)にしゃべらせていたのだろう。わたしの記憶では、1970年代まで「ざんす」言葉は町場でよく聞かれたが、バブル経済以降は聞く機会が激減した。つまり、わたしの親世代が次々と鬼籍に入るとともに、「ざんす」言葉も衰退していったのだろう。
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 江戸期の花柳界から、町場へ徐々に浸透していった「ざんす」言葉だが(花柳界には他にも「やんす」「あんす」言葉というのもあった)、これら町言葉が幕府の御家人や旗本へ浸透するにつれ、武家の間すなわち旧・乃手地域でも「ざんす」言葉を話す人物が増えていく。同時に、当時は無宿者といわれ社会から疎外されていた博徒や地回りなどヤクザやテキヤの世界にさえ、「ざんす」言葉は浸透していった。わたしの世代では首をかしげてしまうのだが、花柳界(今日の芸能界に近い位置づけ)に根のある「ざんす」言葉は、当時はそれほど粋でスマートでカッコいいしゃべり言葉だったのだろう。
 余談だが、本所の町育ちの貧乏旗本でのちに幕閣になった勝海舟Click!は、花柳界の「ざんす」言葉ではなく、同じ花柳界の「やんす」言葉を多用していたといわれている。「…でゃんす」「…でゃんしょう?」といったつかい方だ。日本橋出身で柳橋Click!も近かった親父も、「ざんす」言葉とともに「やんす」言葉もつかっていた。NHKの教養番組(?)のスタッフは、自局でヒットしたレジェンド番組『刑事コロンボ』を観て、標準語Click!ばかりでなくNHKの本局がある地元の東京方言Click!も少しは勉強しようよ。
 ちなみに、「ざんすか?」「ざんす」「ざんしょ」を、気持ちよさそうにアテレコで連発していた小池朝雄もまた中央区(日本橋区+京橋区)育ちなので、おそらく彼も「ざんす」言葉を現役でつかっていた世代だろう。「ざんす」言葉のフェイク学説に唖然として、かなりの文字数を費やしてしまったけれど、あまりにもお粗末でひどい東京方言についての史的歪曲であり、「ざんす」方言は乃手言葉だなどとTVを観ていた若い世代に誤伝されてはかなわないので、看過できなかったしだい。図書室や資料室にこもって空想するのではなく、ちゃんと地元の現場を歩いて検証しようぜ。同番組のNHKスタッフと、珍説を披露した学者センセってば、「ボ~ッと生きてんじゃね~よ!!」。
 さて、話はガラリと変わって、最近ちょっと面白い本を読んだのでご紹介したい。今年(2023年)の夏に河出書房新社から出版された、友田健太郎『自称詞<僕>の歴史』(河出新書)だ。1人称の「僕」が、どのように使われるようになったのかを史的にたどる、「僕」の歴史を綿密に研究した労作だ。ただし、各地域ごとでつかわれる方言(生活言語)の中に位置づけされ、徐々に変化し規定されていった各地域別の「僕」ではなく、日本語一般としての「僕」の位置づけとして主論を展開している。
 たとえば、大阪における「僕」は、おしなべて幼児から老人までが用いる1人称のようだが、東京の街中では明らかに子どもの1人称であり、せいぜい大学生ぐらいまでが許容されるコトバClick!、あるいは同窓生や親しい友人同士の間で交わされるコトバとしてつかわれてきた。明治以降の学校教育に取り入れられ、全国的に用いられるようになった「僕」について、このような地域ごとに存在する方言に飲み込まれてからの地域別用法は、同書の論旨では残念ながら捨象されている。
 ただし、大阪の高校に通われた方から拙ブログへ寄せられたコメントでは、「大人の男が僕というのはみっともないですね。〇〇先生はまだ独身だから僕といってもいいかもしれませんが、結婚したら私というべきでしょう」と話す地元の教師がいたそうなので、大阪でも地域によっては「僕」に対するとらえ方が、大きくちがっているのかもしれない。
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 1937年(昭和12)3月7日発行の「東京朝日新聞」に連載されたエッセイ『浅春随想』Click!で、矢田津世子Click!は「『ボクちやん』を耳にしたりすると、私は、ぞつとする」と書いたが、その34年後の1971年(昭和46)に、一貫して親から「ボクちゃん」で育てられ中年になってからも自分のことを盛んに「ボク、ボク」を連発し、ベレー帽をかぶって画家を詐称した大久保清事件が発覚している。
 同書にも、「ボクちゃん」「ボク」の大久保清が象徴的に取り上げられているが、少なくとも関東地方で芸術家や文化人が “書生気質”の延長で「僕」をつかいはじめたのは、すなわち自分はそこいら一般の社会人である「わたし」「わたくし」「あたし」「あたくし」「おれ」「あたい」「おいら」「おら」「自分」などとは異なり、生まれたときから今日まで社会に束縛されない自由人(芸術家・文化人・芸能人)としての特別な存在であるとして、意識的に「僕」をつかいはじめたのは、おそらく昭和期に入ってからのことだろう。
  
 大久保はふだんの自称詞は<おれ>なのだが、女性に声をかけるときに用いる自称詞はいつも<ぼく>であった。ルバシカにベレー帽をかぶり、芸術家の雰囲気を漂わせた大久保にとって、自称詞<ぼく>もまた、そうした扮装の小道具の一つだったが、<ぼく>を使い、教養を備えた文化人を演じることで、現実の自分のみじめな境遇からひととき逃れたいという感情もあったのかもしれない。/いずれにせよ、そうした「扮装」がある程度の効果を持ったことからも、この時代には教養が強い憧れの気持ちを呼び起こしていたこと、また自称詞<ぼく(僕)>が、この時代まではまだ、教養や学歴のイメージと強く結びついていたことがわかる。
  
 大正期以前は、幼児や生徒・学生の1人称とは別に、文筆家がごく私的なことを書く文章に「僕」をつかったり、思想家が同志へ呼びかける論を展開する際に親しく「僕」を用いたりと、特に芸術家や文化人、芸能人に限らず用いられていたものが、大正期から昭和期に入るにつれ内向する「私小説」の影響もあったのだろうか、作家や画家などの世界に「僕」が急速に浸透していくことになる。町場で「私」と書いていた作家が、山手方面へ転居してしばらくすると「僕」をつかいはじめたりするので、山手言葉が日常語として浸透したのかと思っていたけれど、どうもそれだけではないようなのだ。
 「僕」は、子ども時代からの“書生気質”が継続し「社会へ出ない」、上記の職業意識と密接に結びついたところで用いられる、どこか一般社会人とは異なる特異的で特権的な意識をともなった1人称に“進化”していったようだ。余談だけれど、下谷(上野・御徒町界隈)地域出身の高村光太郎Click!が、いつも自分のことを「あたい」といっていたのを同書で初めて知った。わたしの世代では、「あたい」はすでに町場の女子言葉だ。
 わたしは、大学生のとき「僕」といって姻戚や周囲から軽んじられた(子ども扱いされた)経験から、ましてや芸術家でも文化人でもないので1人称には「わたし」「おれ」しかつかわないが、いまや「僕」は子どもの男子ばかりでなく女子にもつかわれはじめている。先日、小学校6年生の女子たちが盛んに「僕」といっているのを聞いて、そろそろ「僕」もジェンダーレスの1人称になりつつあるのか……と実感したしだい。
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 同書では、まるで昔のターキー(水の江滝子Click!:晩年は「あちし」の1人称が多かったように記憶しているが)のように、女性がつかう「僕」「僕ら」についても書かれているので、興味があればご一読を。女の子がつかう「僕」や「僕ら」は、まぁ、よござんしょ。w

◆写真上:おそらく古くから「ざんす」「やんす」言葉がつかわれていたと思われる、日本橋芸者や置屋が街中に散在していた日本橋地域の風景。
◆写真中上は、どこかの学者センセが「ざんす」言葉についておかしな「学説」を開陳していたのは、このキャラクターが登場するNHKの番組だ。「ボ~ッと生きてんじゃね~よ!!」というのが、このキャラクターの口グセらしい。は、下町言葉を流暢に話す「よござんすか?」「よござんしょ」の『刑事コロンボ』(NHK)。は、やはり「ざんす」言葉が話されていた銀座地域。「家までとどけてくれます?」「はい、よござんすよ~」は、子どものころ店舗などでよく耳にした日常的な町言葉だ。
◆写真中下は、同じく「ざんす」言葉が話されていた神田地域。中左は、今年(2023年)の夏に出版された友田健太郎『自称詞<僕>の歴史』(河出新書)。中右は、1960年代に小学校で使われた小学1年生用『こくご』(教育出版)。は、同教科書に掲載された「じぶんの ことは、ぼく、わたし」と教える1人称代名詞のページ。
◆写真下:空襲から焼け残った、旧・山手にあった江戸の御殿医屋敷と大正の西洋館。江戸期からつづく旧・山手地域でも、もちろん町場と同様「ざんす」言葉はつかわれていた。
おまけ
 下落合に住んだ赤塚不二夫Click!は、おフランス帰りで「シェーッ!」のイヤミに「ざんす」を盛んにつかわせたが、「満洲」出身の彼には山手の奥様方が話す「ざんす」言葉が、ことさらキザに聞こえたのだろう。だが、町場の男女が話す「ざんす」に接していれば、全然異なる印象を抱いたかもしれない。ケムンパスは「やんす」言葉だったかな? ……そういや、矢田津世子Click!や目白の師匠のお上さんClick!のように、自分を「オレ」と称した女性が、その昔、深川の辰巳芸者衆にもかなりいたらしい。(下の写真は、春の深川木場)
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学習院女子部の下校時に結婚希望者と面接。 [気になるエトセトラ]

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 以前、下落合1639番地の第二文化村Click!の家で暮らし33歳で早逝した、昭和初期の作家・池谷信三郎Click!の小説『縁(えにし)』Click!をご紹介したことがあった。会社では管理職の、すでに中年を迎えてしまった独身男が、思いきって新聞に「花嫁募集」の広告を掲載し、結婚相手とめぐり逢うまでを描いた短編小説だ。
 1929年(昭和4)の作品だが、別の地方から東京地方へとやってきてた人たちにとっては、周囲に親戚や縁故がおらず、親しい知人も少なく縁談がもちこまれることなどなかったため、異性とめぐりあって結婚するということが、男女を問わず案外敷居の高いことだった様子がうかがえる。そのために、明治末から増えはじめた結婚媒介所(結婚相談所)、あるいは仲人組合のような組織が東京ではかなりの繁昌をみせるようになる。
 また、親戚や縁故、知人などの紹介による縁談、いわゆる“見合い”による結婚を拒否する風潮が、大正期に入ると新しい社会思想をもつ男女から拡がりはじめ、ふたりの男女が出逢いお互いが気に入ったら結婚をするという恋愛結婚が、東京の若い世代にはあるべき姿の理想的な結婚とみなされるようになっていく。特に明治末から大正期にかけデモクラシーを背景に育った男女は、もはや親同士が決めたような“見合い”話による結婚は、古い封建時代の因習から抜けだせない悪弊とまで考えるようになっていった。
 東京に結婚媒介所ができたのは、大正期も近い1907年(明治40)ごろといわれている。大正初期には、報知新聞の調査記事によれば東京市内(東京15区時代Click!)だけでも、29ヶ所の結婚媒介所がオープンしていたという。そこでは、男子の側から、あるいは男の両親から「賢母良妻主義」や「三従主義」などを求めても、もはやなかなか女性たちには受け入れられず、特に高等教育を受けた女性からは「思想の自由」や「女の解放」が条件として突きつけられるような時代になっていた。
 そんな様子を、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子Click!『今の女-資料・明治女性史』(雄山閣版)収録の、「結婚媒介所」から引用してみよう。
  
 現代の女、然も普通以上の教育を受け得た若い女の思想には、已に我国旧来の因習的覇絆を脱しやうとして藻掻きつゝある者が多い。其最も近き実例の一ツとして記者は結婚媒介所なるものを通して見たありの儘の今日の婦人の思想を写して見たいと思ふ。結婚媒介所! これ已に新らしい女の為めに開放され、而して之に対する新らしい男の自由なる出入を許された門戸である。昔ならば、親の命令とあつては、嘗て見もし聞もしなかつた男子の処へでも従順にして嫁に行つた日本の女が、今日ではこの媒介所と看板を下げた、商売人の手を経てまでも、各自の希望する理想の良縁を求めんとして焦心する様になつた。
  
 つまり、古い因襲や旧弊にとらわれない結婚相手を探すには、結婚媒介所へ登録しておくことが男女ともに最適なコースだった様子が見える。実際に相手と面会し思想性や教養、性格などを見きわめてから結婚へと進む合理的なシステムだ。
 報知新聞記者の磯村春子が取材した、信頼のおけると評判の結婚媒介所では、陸軍の師団長クラスや華族の家従、高名な紳商(ビジネスマン)などの縁談をまとめた実績を備えている、かなり大きな規模の組織だった。大正初期で、もっとも登録が多かった男子は、やはり女性と出逢う機会のなかなかない軍人と、公私立大学卒の勤労者(公務員またはサラリーマン)で、最新の受付番号が各1500番台にまで達していたという。つまり、2つの職種の男子だけで数千人の登録者があったことになる。
 さて、実際に登録会員の男女を逢わせてみると、いろいろと面白いことが起きたそうで、男の側が申し込みの希望欄に「初婚、良妻賢母の資格のある教育あるもの、品行方正、体格強健、性質穏和、愛嬌あり活発なる美人、血統正しくて係累なきもの」などと勝手なことを書き並べておきながら、実際に逢ってみたら「美人」ぐらいしか当てはまる項目がないにもかかわらず、急に乗り気になる男が圧倒的に多かったらしい。
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 結婚媒介所では、そのようなケースの失敗例を多く見てきているので、男子の熱を冷ますために初婚といっても経験はけっこうありそうだし、無教育だし、良妻賢母になれるかは怪しいし、ちょいと性格がナニしてて品行方正ではないかも……などと、暗に注意をうながしでもしようものなら、急に不機嫌になりながら「僕が直してやる、教へてやるから差支へない」などといって、まったく耳に入らなくなったようだ。
 これは、多くの男子会員に共通した「普遍的」な反応のようでw、結婚媒介所のほうでもそれ以上は(相手の女子もたいせつな会員=お客様であるために)強いていえないので黙ってしまうしかなかった。かくして、申込書の希望欄の項目に「美人」以外、ほとんどまったく当てはまらない女性と結婚することになるのだが、数年たつと「こんなはずではなかった」と離婚してしまい、再び結婚媒介所を訪れる男子が多かった。
 また、女子のほうは、紹介された相手の男に十分な財産もあり、「〇〇学士」というような肩書きもちゃんと備わっているにもかかわらず、どこか性格や人格があわなそうなので、なんとなく断るといった事例が多いようだ。このような結婚媒介所に登録するのは、高い教育を受けている女子が多く、また「縹緻(きりょう)が看板」で顔写真の登録をためらわないぐらいの、かなり容姿に自信のある女子が多かったらしい。つまり、おしなべて女子たちは「高望み」をしすぎていたようだ。
 どのような女子たちが登録しにきていたのか、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 女の方では割合に希望が高過ぎるのと、あれのこれのと選り嫌ひをなし却つて良縁を取外して後悔する者が多い。更にこの公開結婚所へ出入する女には何麽(どんな)種類のものが多いかと調べて見るとかういふ実例がある。/築地あたりに住む某実業家の令嬢で、先年日本実業団の一行が米国へ出掛けた其留守中に、独断で結婚媒介所へ申込んでおいたのがあつた、すると帰国した親が後に之を聞きつけて驚いて取下げに来て断つて帰つた。又学習院女学部の生徒達でも、申込のある令嬢達へ面会の通知をして置きさへすれば学校帰りにはサツサと独りで立寄つて行く。其外申込の履歴に由つて見ると女学校の卒業生、再婚の貴婦人未亡人といふ処が最も多いのである。(カッコ内引用者註)
  
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 ここには、明治期の女性にはおよそ見られなかった、自由闊達な女子たちの姿が見てとれる。親とは関係なく(あるいはナイショで)、自分ひとりで結婚媒介所を訪れてプロフィールを登録しておき、気に入った男子が実際に面会の希望をしてくるのを待つという、今日の婚活エージェントや出会い系サイトと大差ない仕組みだ。
 特に、学習院女子部Click!(1918年より女子学習院Click!)の生徒たちが下校時に結婚媒介所に立ち寄り、面会を希望する男子とちょっとだけ面接し話して帰る……というようなシチュエーションは、大正初期の当時としては破天荒な出来事で、一般的には考えられないような“大冒険”だったろう。古い考えの親が聞いたら、「破廉恥な、なんてはしたない! 恥を知りなさい!」とでも叱りそうな行状だ。だが、それでも女子たちは少しでも自分の好みにあう男子を求め、せっせと親にはナイショで結婚媒介所へ通っていた。
 ただし、結婚媒介所へ登録できる男女はおカネに余裕のある、上流から中流にかけての人々であり、町場でふつうに働く庶民たちとは無縁の世界だった。彼らは江戸期から変わらずに、街中で気に入った男女を見つけては恋愛をしたり、親族や知人、社長、師匠、親方、先生などのつてで見合いをし、結婚へとつなげていたのだろう。
 結婚媒介所への入会申込金は、一般的には1円で、男女の紹介ごとにわずかながら事務手数料を取ったとみられ、結婚が成立すると結納交換時に10~50円の成功報酬を支払うという契約だった。ちなみに、明治末の1円は現在のレートに換算すると約2万円ぐらい、成功報酬はおよそ20万円~100万円ということになる。
 会員はおしなべて教養の高い女子が多く、著者は次のように記事を結んでいる。
  
 要するにこの結婚媒介所なるものは、社会の機運に投じて出来たもので、其之(そのこれ)を利用する者の却つて教育ある若い女に多いといふに至つては世の女の児を持つ家庭の親々の真面目に研究すべき新しき問題であると思ふ。(カッコ内引用者註)
  
 結婚媒介所における面会は一度ではなく、たとえば男子が希望し女子にも異存がなければ、何度でも逢って納得するまで双方が話しあうことができた。だから、かなり親しく打ちとけて気を許せるような関係になると、よからぬことを考える男女も現れたようだ。
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 結婚媒介所には「破談」の連絡を入れておきながら、ふたりはお互いが気に入り結婚まで進んでいるにもかかわらず、成功報酬を払うのが惜しくなってごまかすケースだ。このような例は、結婚媒介所が把握しているだけでも、若い男女を中心に数多く見られたという。

◆写真上:明治末から大正期にかけ、「結婚」は女性にとって切実なテーマだった。
◆写真中上は、1909年(明治42)出版の永沢信之助『東京の裏面』(金港堂書籍)に掲載された結婚媒介所の挿画。は、同書の東京市内にある結婚媒介所リスト。は、1910年(明治43)刊行の「無名通信」7月号(無名通信社)の結婚媒介所リスト。
◆写真中下上左は、1910年(明治43)刊行の結婚媒介所リストが掲載された「無名通信」7月号。上右は、1909年(明治42)出版の五峰仙史『滑稽小説・結婚媒介所』(大学館)。は、五峰仙史『滑稽小説・結婚媒介所』の巻頭挿画。は、結婚媒介所についてその内実を詳しく紹介している当時の代表的な女性誌で、1916年(大正5)刊行の『婦人世界』10月号()と、1914年(大正3)に刊行された『女学世界』9月号()。
◆写真下は、1917年(大正6)に出版された川村古洗『放浪者の世の中探訪』(大文館)に掲載された結婚媒介所リスト。は、1926年(大正15)刊行の「東洋」7月号(東洋協会/)に掲載された、日本より進んでいると紹介された中国の「官設結婚媒介所」記事()。下左は、大正末になると結婚媒介所を介したた悪質な結婚詐欺などの犯罪が発生するようになり、その事例を紹介した1926年(大正15)出版の百鬼横行『暗黒面の社会』(新興社)。下右は、同書のオドロオドロしい挿画で江戸川乱歩の世界Click!のようだ。もっとも、自由な出会いや恋愛を快く思わない連中が、大げさに危機を煽っているようにも見えるのだが。

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哲学堂を見学したあと妙正寺川で遊泳。 [気になるエトセトラ]

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 聖路加国際病院Click!のある明石町から、1919年(大正8)の小学2年生のときに百人町へと引っ越してきた前田志津子という方は、地元の戸山尋常小学校へと転入している。転居先の住所は、のちにロッテの工場ができる区画の向かいとなっているので、大久保町(大字)百人町(字)北裏263番地界隈ではないかと思われる。
 関東大震災Click!のときは余震が心配なため、近くに広い庭と大きな屋敷をかまえて住んでいた、衆議院議員の国沢新兵衛邸の敷地に避難している。証言では「貴族院議員の国沢新平」となっているが、貴族院議員の後藤新平と衆議院議員の国沢新兵衛を混同しているとみられ、大震災時は国沢邸の庭にテントを張ってすごした。ちなみに、国沢新兵衛は平河町に画塾『彰技堂』を開いた洋画家・国沢新九郎の弟にあたる。
 彼女が通っていた戸山尋常小学校は、東京市では音楽教育に熱心な小学校として特に知られており、「赤い鳥」Click!の葛原しげるや弘田龍太郎らとの関係も深く、同小学校の校歌は葛原が作詞し弘田が作曲をしている。生徒たちは、東京各地の小学校へ呼ばれて合唱を披露していたらしい。ちょうど、戦後にアニメソングなども幅広く手がけた、1960~70年代における上高田小学校Click!のような存在だったようだ。
 当時の戸山尋常小学校における生徒たちの様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、前田志津子『音楽教育が盛んだった戸山小学校』から少し引用してみよう。
  
 小学校には最初は着物を着て行きました。モスリンとか銘仙の着物で、えんじ色の袴をはいて行きましたの。あとは、紡績といって、木綿のざらっとした紬ふうの節のあるような布地の着物でした。二年生のころから洋服を着て行きました。/私も妹も戸山小学校から選ばれて、ほうぼうの学校へ行って、歌をうたいました。妹の同級に童謡の葛原しげる先生のお嬢さまがいらっしゃって、いっしょに歌いました。(中略) 戸山は音楽教育の盛んな学校でした。そのころは童謡の始まりでしたの。上野の野外音楽堂や、大塚の高等師範学校の講堂でも歌いましたよ。(中略) 平和博覧会にも遊戯で出場することになり、余丁町小学校の先生が戸山にいらして、遊戯の指導をしてくださいました。私と妹はどこにでも、いつもいっしょに行きました。
  
 彼女の学年は、全部で3クラスだった。男子×2クラスで女子×1クラスだったが、男女を共学にせず女子を1クラスでまとめてしまったため、女子組は70人以上の大人数になってしまった。このあたり、男子組・男女(共学)組・女子組と分けていた、昭和初期にみられる落合地域の小学校とは少し方針が異なっていたようだ。
 学校の運動会は校庭で実施され、豊多摩郡の運動会は陸軍の代々木練兵場で行われていた。郡の運動会には、豊多摩郡に属する内藤新宿や淀橋、落合、戸塚、大久保、渋谷、千駄ヶ谷、代々幡、中野、野方、杉並など、各町村の小学校が集まって行われたものだろう。戸山尋常小学校の運動会では、昼食(弁当)は家族といっしょに教室で食べたようで、現在のように運動場では食べなかった。運動会の出しものも、なにやら激しい競技はなくゲーム性の強いものだったらしく、運動量が少なくてかなり静かなイベントだったようだ。
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 ひょっとすると、戸山尋常小学校では音楽教育に注力していたため、現在の芸術系の学校がおしなべてそうであるように、生徒たちがケガをしないよう激しい運動は意識的に避けていたのかもしれない。絵画・彫刻や音楽を問わず、手足(特に指先)をケガしてしまったら、その時点で即座にアウトだ。(これは繊細な職人の世界でもまったく同様だ)
 先年、芸術系大学の器楽科(弦楽器)に通っていた知人の女子が、カフェでアルバイトをしていて指に火傷をしたところ、担当教授から「なんのために音楽をやってるのか、自覚が足りない!」とこっぴどく叱られたそうで、すぐにバイトを辞めさせられている。歌唱も同じく、身体のどこかにケガを負ったりしたら張りのある声は出せなくなるので、いくら運動会でも負傷の可能性のある競技は演目から外していたのだろうか。
 代々木の練兵場も遠足も、当時はすべて徒歩で出かけており、乗り物を使うことはなかった。落合地域の先まできている林間学校の様子を、同資料より引用してみよう。
  
 何年生のときか忘れましたが、豊多摩郡の運動会があり、代々木の原まで太鼓を叩いて歩いて行きました。遠足も杉並の堀ノ内の蚕糸会館まで歩いて行きましたの。その頃はどこにでも、歩いて行きました。/夏休みには、先生がたに哲学堂に連れていっていただいて、途中で妙正寺川で泳ぎました。一本橋がかかっていて、渡るのがこわかったですね。まわりは大根畑で、淋しいところでした。/クラスで女学校に進学したのは、四分の三ぐらいで、残りの四分の一は大久保の高等小学校に行きました。教科書は二学期で全部終わってしまい、そのあとは問題集で放課後まで、勉強しました。そのころ教室に電灯がなかったので、暗くなるまで勉強しました。
  
 戸山尋常小学校の生徒たちは、井上哲学堂Click!(哲理門の幽霊姉さんClick!に、生徒たちは震えあがったにちがいないw)を見学したあと、バッケ(崖地)Click!下を流れる妙正寺川で泳いでいる。1923年(大正12)ごろに開園した、ちょうど哲学堂の真下にあった郊外遊園地Click!野方遊楽園プールClick!ではなく、ほんとうに川中で泳いだようだ。
 妙正寺川に架かる「一本橋」とは、稲葉の水車Click!の上流に築かれた第2のバッケ堰Click!の横(北側)にわたされていた、細い板状の木材1枚による“材木橋”のことだろうか。このバッケ堰のすぐ下流は、プールのように流れがよどみ、上高田の子どもたちには格好の遊泳プールとなっていた。まわりの「大根畑」は、そろそろ夏の収穫も近い春まきした落合ダイコンClick!の畝だったろう。関東大震災前後の大正後期、生活必需品の物価を抑えるため、東京各地に設置された公設市場Click!への出荷を待つダイコン畑だったのかもしれない、
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 前田志津子という方は、小学校では女学校への進学組に属していた。彼女の母親は、女学生が電車に乗って学校へ通うのを嫌がったため、なんとか徒歩で登校できる九段の精華高等女学校へ入学している。幕臣で彰義隊Click!にも参加した、寺田勇吉が1911年(明治44年)に創立した高等女学校だ。関東大震災とその延焼により、東京市内にあったおもな高等女学校の校舎はほとんどが壊滅していたが、地盤が強い九段にあり堅牢な石造りの精華高等女学校は、被害軽微で倒壊も延焼もせずに建っていた。
 大震災をまぬがれた市内の女学校は少なく、大きめな精華女子高等女学校の受験は東京じゅうから入学希望者が殺到して、かなりの競争倍率だったようだ。また、山手線も中央線も、路面を走る東京市電もダメだということで、彼女は百人町から九段の軍人会館Click!(のち九段会館Click!)の南隣りにあった精華高等女学校まで歩いて通っている。片道5kmほどだが、自宅を出てから女性の脚でたっぷり1時間はかかっただろう。
 入学試験のときは、戸山尋常小学校の音楽教育が大きく役立つことになった。入試の口頭試問(面接)のとき、彼女の顔を憶えていた試験官がいたのだ。
  
 入学試験の口頭試問のとき、試験官の先生に「あなたこの前、郡の音楽会に出てたでしょう」と言われました。先生が覚えていらっしゃったんです。その頃、毎年豊多摩郡の小学校の音楽会があって、その年は精華高等女学校を借りて行なったんです。その前は、府立第五高等女学校が会場だったの。/実践高等女学校の一次試験に合格していたんですが、精華高等女学校に決めてしまいました。妹も私の教科書のお下がりを使えるので、精華高等女学校に入学しました。
  
 彼女が女学校2年生のとき、わずか2ヶ月の間に母親と父親を相次いで亡くしている。両親とも病死だったようだが、残された7人の子どもたちは途方に暮れた。下の幼い弟や妹たちは、やむをえず育ての親を見つけて養子養女に出され、彼女とすぐ下の妹は近くの大久保に住んでいた叔母が引きとり、面倒をみてくれることになった。
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 生活環境は激変したが、百人町の家を処分したおカネと、父親が経営していた会社からの送金とで、なんとか女学校へ通学しつづけることができたらしい。このインタビュー取材には、励ましあいながらずっといっしょだった、妹の前田百合子という方も同席している。

◆写真上:左手が戸山小学校の現状で、奥に見える高層ビル群は戸山ヶ原跡。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる戸山尋常小学校とその周辺。は、1924年(大正13)に戸山ヶ原(北側)から撮影された同小学校。は、1925年(大正14)作成の「大久保町市街図」にみる同小学校と周辺。
◆写真中下は、妙正寺川に築かれた第2のバッケ堰の横に渡された細い板の材木橋。1982年(昭和57)出版の『ふる里 上高田の昔語り』Click!から、細井稔の記憶画「新堰の当時の風景」より。中上中下は、いまだ妙正寺川では泳げないが神田川でできる水遊びや遊泳。いまでは、20種類を超える棲息が確認されている神田川Click!の魚。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚小学校とその周辺。は、九段精華高等女学校の絵はがき。は、修学旅行先らしい精華高等女学校の女生徒たち。

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