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伊勢丹デパートガールの第1期生の証言。 [気になるエトセトラ]

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 かなり以前に、大手呉服店がデパート(百貨店)化Click!するに当たり、モデル事務所Click!からデパートガールやエレベーターガールなどを派遣してもらっていた事例をご紹介している。おそらく、マネキンガールClick!(いわゆるファッションモデル)の派遣をきっかけに、大正末から昭和初期にかけ各売り場やエレベーターなど、顧客と直接接触する業務へ“モデル並み”の女性を派遣していたものだろう。昭和期に入ると、さすがに各デパートとも積極的に女子社員を雇用しはじめている。
 昭和初期に賑わいを見せはじめていた、新宿へ進出した日本橋の三越Click!を横目で見ながら、神田の伊勢丹も新宿への店舗進出を計画している。しかも、三越とは異なり新宿支店の開設ではなく、大きなビルディングを建てて本社機能も移転しようと考えていた。そのために、1933年(昭和8)の早い時期から新規採用の売り子=デパートガールを募集している。新宿の店舗は建築中であり、入社試験や面接は従来の神田本店で行われた。
 もともと新潟出身の丸山智與子という方は、故郷の女学校を卒業すると東京にいた叔父の家に遊びにきていたが、周囲の女性たちはみな職業をもち働いていたので、20歳になったのを契機に自分もなにか仕事をしてみたいと考えるようになった。そこで、ちょうど店員を募集中の伊勢丹で働こうと、入社試験を神田本店へ受けにいった。人事課を訪ねると、試験会場は「真直ぐに行って突き当たったら左に曲がる」と教えられ、そのとおりに歩いていったら道路にでてしまった。昭和初期の神田伊勢丹本店は、新宿伊勢丹とは比較にならないほど売り場のフロアも狭いコンパクトなビルだった。
 女子の入社希望者は、東京の(城)下町Click!でも定評のある百貨店であり、同店では初めての女子社員の大量募集だったせいもあって、800人ほどが殺到したようだ。入社試験はきびしく、つごう7~8次試験まであった。受験するうえでの基本的な条件は、両親が健在で身体健康、高等女学校以上の学歴のある女子ということだった。
 彼女はそれに第1期生として合格したが、すぐに社員になれるわけではなく最初は「雇員」という身分の試用期間で給料は24円だった。今日の貨幣価値に換算すると約6万円強と低いが、3ヶ月後「準社員」になると昇給する仕組みになっていた。ただし、全員が3ヶ月で準社員になれるわけではなく、勤務成績に加え顧客への態度や接し方、言葉づかいや発音など、その仕事ぶりから雇員のまま抜けられない女子もいたらしい。
 彼女は最初に、金銭の出納をするレジ係を担当している。レジを打つ場所は日々変わり、各階の売り場を循環するようなローテーションが組まれていた。これは不正防止と同時に、同じ売り場の男子社員と親密になるのを防ぐ目的があったのかもしれない。出社すると、まずロッカー室で制服に着替え、開店30分前にはその日の担当売り場へ入り、ショウケースのガラスをアルコールを薄めた水できれいに磨くのが義務づけられていた。
 勤務の様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、丸山智與子『新宿伊勢丹の一期生』から引用しよう。
  
 『じょてんかん(女店監)さん』と呼ばれる女の人が各階に一人ずついました。女店員の指導監督をする役目の方で神田店から来られました。私たちより五、六歳年長で「女だって男の方に負けちゃあいけない」とよく言われました。しっかりしてらして男の方だって怖がっていましたからね。/服装は着物の上にブルース(上っ張り)。着物は自前です。夏は水色のポプリン。冬は紺地に赤のストライプが入った純毛でした。開店のころ売出し期間中は月二回しかお休みがなくてそれも交代でした、土、日は九時半まで仕事です。一二月は売出しなみでした。勿論早番と遅番はありましたけど。
  
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 「事故」があると、なかなか帰宅できなかった。銀行と同じで、勘定が1銭や2銭不足しても勘定が合うまで最初から計算のやり直しとなった。どこかでレジを打ちまちがえたか、顧客へわたす釣銭のまちがいがなかったかどうか、勘定が合わない売り場の社員は、全員が残り面倒な細かい確認作業しなければならなかった。今日のクラウドPOSのように、一瞬で錯誤がある箇所を洗いだすトレーサビリティなど存在しない、すべてがアナログの時代なのでとんでもない手間と時間がかかっただろう。どうしても勘定が合わなければ、上長の「事故簿」に記録され勤務評定へと直結した。
 社員食堂は地下2階にあり、残業のときは会社側が14銭の食券を配布して無料にしてくれたようだ。今日の貨幣価値に換算すると、この食券は喫茶店でおやつとお茶が飲めるぐらいだが、社の食堂には社員割引があったと思われるので、もう少しちゃんとした食事ができたのだろう。食堂といっても、男女が並んで食べるということはなく、女子のテーブルと男子のテーブルの境界線が、暗黙のうちに決められていたらしい。
 社内結婚は、いっさい禁止されていた。また、伊勢丹のデパートガールなら身元が確実なので、新宿界隈では「嫁さがしは伊勢丹」などといわれた。同資料から引用してみよう。
  
 若い娘さんがいましたので結婚する人も多かったですよ。嫁さがしは伊勢丹といったくらいですから。身元がしっかりしていますし躾もきちんとしていますしね。でも今と違って社内結婚は御法度でしたから結婚するとどなたも退職します。一階のワイシャツ売場のレジに座るでしょ。そうすると同じお客さんが行ったり来たりしてあの方は誰かを探しにいらっしゃったんだなとわかります。あの時分は柱の四方に鏡がついていましたから店内の様子が座っていてもよくわかるんですよ。悪いことをした人もわかりましたね。
  
 社内では、男女社員の交流にはネガティブだったが、社外のレクリエーションはまったく別だった。遠足は山登りが多かったらしく、富士山や榛名山、高取山、高尾山などに男女そろって出かけている。業務をすべて終えた午後11時ごろ、新宿駅から夜行に乗って翌日の夜までには新宿へもどるという、夜行日帰りの強行軍だった。
 また、運動会は豊島園Click!で開かれ、事務方と売り場、フロアごとに分かれての対抗戦が多かったらしい。試合に不参加の社員も、必ず応援しなければならなかった。でも、社内では交流できない男女社員には楽しみな行事だったようだ。
 伊勢丹の中には美容室もあり、六本木から出勤してくる「千葉先生」(千葉益子だろうか?)という美容師が担当していた。この美容師は、華族や皇族の家庭にも出張しており、得意先には津軽家Click!も含まれているので、おそらく下落合3丁目1755番地の津軽義孝邸Click!へも出張していただろう。大晦日に閉店しすべての勘定計算を終えると、女子社員たちはこの美容室で髪を結ってもらい、初詣でへと出かけていた。
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 戦時中、伊勢丹は幸運にも焼けずにそのまま残った。戦争が激しくなると、売り場がどんどん寂しくなっていったようだ。それは物資不足で売る商品自体が減っていったこともあるが、職場の男子社員が次々に召集されて消えたことだ。勘定・出納部門は男子社員がひとりだけで、あとはすべて女子社員だけになった。レジ係も20人ほどいたが、すべて女子社員だけになってしまった。
 伊勢丹の職場環境は、「女店監」に象徴されるように、仕事ができれば女性でも幹部社員にとりたてられたようだ。証言をしている丸山智與子という方も、金庫のカギを預かる今日でいえば経理部長のようなポストに就いている。女性でも「能力で上っていきましたから、やり甲斐がありましたね」と、彼女も述懐している。
 戦時中の伊勢丹売り場の様子を、同資料よりつづけて引用してみよう。
  
 まだそんなに空襲が激しくならないころ、伊勢丹の裏にあった松平写真館に爆弾が落ちてその震動が凄かった。地下二階にしゃがんでいた人はその衝撃で横に倒れてしまい、電話室の人はレシーバーをかけていたので器械と一緒に上まで飛び上がったそうです。私は出納の鍵だけ持って四階の秘書課の狭い部屋で机の下に滑りこんだの。朝あったビルが帰りはなくなっていて悲しかったですね。/伊勢丹は焼けなかったですが、五月ごろになるとあたり一面焼け野原になって私の住んでいた世田谷の羽根木から伊勢丹が見えましたよ。交通機関も破壊されて動かないのでトラックに乗せて貰って出勤したこともあります。(中略) 売場でもだんだん売る物がなくなって、紙で作ったカラー(衿)とか紙のベルト、魚皮で作った靴やベルトなども売りました。戦争中は誰も使いませんし口紅なんか付けていたら大変で、それこそ国賊なんてすぐ言われますから。国債や慰問袋コーナーもありましたね。
  
 このとき、松平写真館(経営・松平三郎)に落ちたのは250キロ爆弾だろう。松平写真館は、東京市内でもかなり名の知られた店だった。空襲前の、1944年(昭和19)に撮影された空中写真を見ると、松平写真館は3階建てほどの細長いビルだった様子がうかがえる。それが倒壊するということは、鉄筋コンクリート仕様ではなく木造モルタル建築のビルだったのかもしれない。1945年(昭和20)に入ると、東京の各地で少数機のB29による散発的な空襲Click!が行われるようになっていた。
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 伊勢丹は頑丈なコンクリート建築だったため、社員たちは空襲警報が出ても防空壕Click!などへ退避しなかった様子がわかる。手すきの社員は、地下2階へ避難したかもしれないが、重要な役職の社員は持ち場を離れていないのが証言からうかがえる。二度の山手空襲Click!を耐えた伊勢丹は、戦争末期になると陸軍に接収され、敗戦後は米軍に接収されている。米軍は1948年(昭和23)まで、伊勢丹ビルの3階から屋上にかけ、日本全土にわたる爆撃効果測定用の空中写真(ここでもよく引用している)を撮影する偵察部隊Click!の本部にしている。

◆写真上:戦災でも焼けなかったため、1926年(大正15)に竣工したほてい屋百貨店の建物を流用しリニューアルして営業している伊勢丹新宿本店。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された伊勢丹神田本店。中上は、1930年(昭和5)ごろに撮影された伊勢丹進出前のほてい屋百貨店で、新宿通りの左手(南側)には建設中の新宿三越が見えている。中下は、1932年(昭和7)ごろに撮影されたほてい屋の西隣りに建設中の伊勢丹で、1935年(昭和10)に伊勢丹は隣接するほてい屋を買収している。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるほてい屋買収直後の伊勢丹本店。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろの伊勢丹界隈。(新宿歴史博物館「新宿盛り場地図」より) 中上は、1944年(昭和19)に撮影された伊勢丹界隈。中下は、1945年(昭和20)1月6日に撮影された伊勢丹とその周辺。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された空中写真で、大量の焼夷弾が新宿駅を中心に投下されている。
◆写真下は、昭和初期に撮影されたとみられる木造の松平写真館で、いまだビル状に改築されていない。中上は、1933年(昭和8)ごろにほてい屋百貨店の屋上から松平写真館の方角を向いて撮影された写真。同写真館は、いまだビルに建て替えられていないとみられる。中下は、現在の伊勢丹の屋上庭園から新宿駅南口方面を向いた撮影で、見えているビルはルミネ新宿(右)とドコモタワー(左)。は、いまも昭和初期の面影が残る伊勢丹新宿本店。
おまけ1
 1933年(昭和8)の伊勢丹オープン時には、開店を待つ客の長い行列ができた。中の2葉は、いまでも伊勢丹のショーウィンドウはかなり凝っているが、開店当初からディスプレイには力を入れていたらしい。下の2葉は、オープン時に撮影されたとみられる店内の化粧品売り場の記念写真。いずれも新宿歴史博物館『新宿風景』(2009年)より。
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おまけ2
 1935年(昭和10)に買収されるまで、伊勢丹の隣りで営業していたほてい屋百貨店の歳末売出しチラシ。伊勢丹に対抗するためだろうか、年末は夜間営業までしていたようだ。
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ビジネスモデルに悩む「神社の迷宮」。 [気になるエトセトラ]

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 都内にあるデータセンターのサーバラック群には、クラスタごとに「家内・交通安全」や「事故防止」などのお守りが下がっていることが多いと聞く。システムエンジニアリングを突き詰めると、最後はやっぱり神頼みというのもおかしいが、確かにシステムの構築から運用管理にいたる各Phaseには、運・不運がつきまとうのも事実だ。技術の論理的な整合性がとれていても、カットオーバー後や追加開発後も円滑に稼働しつづけるとは限らないのは、フィジカルなエンジニアリングの世界と同様だ。
 これらのお守りは、別にPMやSEが勝手に自分でこしらえてラックに下げているわけではなく、都内各地の神社で実際に授与(販売)されている「厄除け」のものだ。社(やしろ)の三大行事といえば、正月の初詣でに節分の豆まき、そして最近はやたら期間が長くなったように感じる秋の七五三だ。この3つのイベントだけで、お守りやお札(お神札)、おみくじの喜捨額(売上げ)は年間の80%前後になるという。
 確かに、わたしも家から独立して下落合に住むようになってから、昔日の下落合村総鎮守である下落合氷川明神Click!への初詣では欠かさないし、破魔矢を必ず購入……いや喜捨して授与いただいている。身体健康・交通安全のお守りも、買い替えては……もとへ喜捨しなおしては端末の周辺に置いている。自分の身体を守るというよりは、出雲のクシナダヒメClick!にPCの不具合防止と情報交通安全を祈願してのことだ。特に、彼女はスサノオとともにヤマタノオロチ退治に参加しているので、手をかえ品をかえて襲来するサイバー空間の襲撃にも、巫女的な威力を発揮すると見こんでの呪術的防衛ラインだ。w
 もうひとつ、家が代々氏子の江戸東京総鎮守・神田明神では、主柱である平将門霊神Click!の護符を買っては……いや喜捨して授与いただいては家の壁に貼っている。わたしは、別に神道の熱心な信者ではないが、データセンター(クラウド上)でシステムの構築や運用管理を担当するPMやSEと同様に、一種の「気休め」であり「ゲンかつぎ」であり、また「おまじない」のようなものにすぎない。ただし、そこらにあるどこの社のお守りでもいいというわけではなく、江戸東京のゲニウスロキ(地霊)であるオオクニヌシやクシナダヒメ、スサノオ、タケミナカタなど古い社にやどる出雲系の護符に限定している。
 各地の社(やしろ)で、お守りが大々的に売られるようになったのは、1964年(昭和39)の東京オリンピックがきっかけだったそうだ。世の中では「交通戦争」などと呼ばれ、交通事故が多発して1年間に数万人が事故死するような状況を迎えていた。そこで、お墓も檀家もなく収入の道が限定されている社では、「交通安全祈願」の授与品(販売品のこと)を増やしてなんとか売上……いや喜捨量を伸ばそうと企画したらしい。企業でいえば、マーケットニーズ(参拝者の欲望や要望)を的確に把握し、ユーザーが求める製品を開発して大々的にSPを展開していった……ということになるだろうか。
 少し前の情報だが、授与品製造メーカーへの取材記事を見つけた。2016年(平成28)刊行の「週刊ダイヤモンド」4月16日号に掲載された「神社の迷宮」から引用してみよう。
  
 いまや授与品販売は、参拝者や氏子を集めるための、貴重な手段となっている。/お守りでいえば、普及のきっかけは1964年の東京オリンピックで、自動車優先から歩行者優先社会へと移行する中で、「交通安全祈願」が登場したことだった。/その後、お守りの販売を拡大するため、祈願の種類が増えていった。縁結び、安産、健康にとどまらず、今では、受験、就職活動、果ては、出世、IT情報安全……などなど数え上げたら切りがない。加えて、色やデザインもどんどん派手になっている。「どこの神社もオリジナルの授与品で差別化したい。東京都内の神社を回って、同じお守りを見つけることの方が難しい」(授与品製造メーカーの担当者談)というくらい、多品種化している。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、子どものころはどこの社(やしろ)でもお守りは似かよっており、中にはネーム(社名)を入れ替えただけで同一のデザインのものもたくさんあった。当時は少品種大量生産だったお守りが、社のSP戦略と他社との差別化(その社ならではの独自な付加価値付与)のために、限りなく個別受注少量生産に近づいてしまった様子が透けて見える。
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 また、そろそろ年間のインバウンドが3,000万人を超えそうな状況を迎え、日本語ではなく各国語によるお守りやお札などが登場しているらしい。破魔矢も、たいてい羽の色は白か赤と決まっていたものだが、最近では色とりどりのものが増えたという。これら授与品は、多品種少量生産のため手作業の工程が多く、製造元は中小企業が多いとのこと。お守りやお札の「効能効果」は、いつの間にか24h365dに限定されており、翌年にも改めて喜捨して手に入れなければならないという授与(販売)サイクルまで形成されている。
 以前、寺院の経営がかなり苦しく、檀家の減少に少子化や過疎化が加わり、21世紀は廃寺が続出するのではないかと記事Click!に書いたけれど、各地の社(やしろ)もまったく事情は同じだそうだ。墓地という檀家の人質ならぬモノ質(死者も人だから「人質」でいいのかもしれないが)を持たない社にとってみれば、賽銭と授与品、そして神前でのイベントや祭礼が収入のすべてであり、寺院以上に苦しい台所事情だろう。
 お守りやお札、おみくじ、破魔矢、熊手、ご朱印では経営を維持できないので、幼稚園や結婚式場を併設する社も多い。それでも経営は苦しく、町おこしならぬ“社おこし”の創意工夫で、その社ならではのオリジナリティを基盤とした“名物”を生みだそうとする動きも盛んだ。以前、拙サイトの記事で、親父が買ってきた江戸期の玩具「今戸焼き」Click!について触れたけれど、地元の今戸社では昔から江戸の町々に供給していた招きネコClick!発祥の地にちなみ、かわいい招きネコのキャラクターを創造している。
 今戸社は、1年間にお守りが20個(体)ほどしか売れない忘れられた社だったが、福をまねく招きネコと縁結びの神(イザナギ・イザナミの第七天神Click!)を奉っているのを“武器”に、参拝者を増やしつづけていった。この付加価値やSP戦略を企画・実施したのは、東京ではめずらしくなくなった巫女(女性神主)Click!だ。しかも、縁結びを単なる社への願掛けレベルにとどめず、男女の出逢いをあと押しする婚活プロモーション「縁結び会」を社務所で主宰している。2016年の時点で、すでに100回ほど開催しており60組のカップルが誕生しているそうだ。福をまねく縁結びの社を、出逢いの場所、婚活の場所として開放したアイデア勝ちの今戸社ならではのケーススタディだ。
 結婚式場を備える社(やしろ)でも、今日の嗜好に見あう新たな仕掛けをあれこれ模索中だ。神前結婚といえば、昔から祭壇前に和装した新郎新婦の席があり、床几を並べてそれぞれの親族が左右に向かいあって座るというような情景が浮かぶが、どうやらそのような結婚式スタイルを望むカップルの激減とともに、多種多様な施策を練っているらしい。
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 たとえば新潟の護国社(新潟縣護国神社)では、まるでキリスト教系か記念披露パーティー目的の複合施設での結婚式のようなスペースをデザインし、宴席で提供する料理も和洋を選べるフルコースと、なんだか目白椿山荘Click!目黒雅叙園Click!のような結婚式場を演出している。インテリアはすべてイタリア製で、披露宴会場は豪華客船をイメージした会場と、ニューヨークの5つ星レストランを模倣したデザインの会場とがあるそうだ。カップルの衣装も和洋から選べるので、もはや先述のような神前結婚の面影は皆無に近い。
 また、江戸期には芝居や物語あるいは見世物Click!、明治以降は小説や新派、映画などと連動した社(やしろ)の宣伝は存在したけれど、最近では人気アニメとのコラボレーションを追求する社も少なくないそうだ。同誌より、もう少し引用してみよう。
  
 神社がアニメの聖地となることで、町おこしにつなげるケースが増えている。「らき☆すた」の舞台になった埼玉の鷲宮神社、「ガールズ&パンツァー」の、茨城の大荒磯神社などがそうだ。/東京では、神田神社が「ラブライブ!」とのコラボレーションを展開している。「ラブライブ!」は、神社に近い秋葉原を舞台としており、キャラクターの一人が巫女のアルバイトをしている設定だったことから、この話が実現した。3月30日に神田神社を訪れてみると、「ラブライブ!」のラッピングカーがお目見えしており、キャラクターをイメージしたドリンクを求めて、ファンが境内の外まで長蛇の列を成していた。/昨年は、異例なことに神田祭のガイドブックに、「ラブライブ!」のポスターが掲載された。
  
 アニメ「ラブライブ!」自体をまったく知らないので、この記事の情景はチンプンカンプンなのだけれど、創立1300年祭も近い神田明神Click!の境内に、どうかアニメのキャラクターに扮した女子たちが大勢ウロウロするのだけはカンベンしてほしい。
 そういえば、ときどき下落合氷川明神社Click!がコスプレ女子で埋まることがある。まるで池袋の乙女ロードから、そのまま下落合にテレポートしてきたような女の子たちなのだが、どうやらコスプレヲタク女子の撮影場所として境内を提供しているようだ。経営が苦しいのは理解できるのだけれど、神田明神Click!と同じく創建が非常に古い下落合氷川明神も、コスプレ女子が境内にあふれてヲジサンが入りづらくなるのはカンベンしてほしい。
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 神田明神ではようやく売り出し……もとへ授与しだしたようだが、サイバー攻撃除けのお守りを作るというのはいかがだろうか。神田明神のケースは、「IT情報安全守護」と漠然としたお守り(表現もInformationと情報が重なりいい加減で古く、ICTの現場に詳しくない方が創案したのだろう)だが、下落合氷川明神では「ICT安全守護」シリーズとして、明確に差別化した「サイバー攻撃退散」お守りをはじめ、より具体的に「標的型攻撃除け」「ランサムウェア除け」「個人情報守護」「IoTセンサリング安全」「AWS鎮護」「azure鎮護」「PC・デバイス守護(Windows版/Mac版/Linux版)」(ただし1年ごとのバージョンアップ必須/爆!)など、目的別のお守りを作って喜捨を待てば、授与を求める企業の長蛇の列ができるかもしれない。もちろん、デザインは退治されたヤマタノオロチに刺さる櫛(かわいいクシナダヒメ必須)で、ICTに強い社として一躍脚光を浴びることはまちがいない………かな。

◆写真上:日本では「厄除け」「魔除け」のお守りも見かける、データセンターに並んだサーバやネットワークスイッチを収容するマウントラック群。
◆写真中上:江戸東京総鎮守の神田明神社で見られる情景いろいろ。
◆写真中下:新潟県護国社の情景で、下の2葉はまるで椿山荘か雅叙園のようだ。
◆写真下は、正月の初詣でで賑わう下落合氷川明神社。は、同社の拝殿。は、同社の神輿巡行。下落合氷川社でも、ときおりアニメ連携やコスプレ女子撮影会が見られる。

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再びどこだかわからない山と渓流の写真。 [気になるエトセトラ]

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 前回、箱根外輪山の最北端、金時山Click!とみられる山影や登山道を撮影した写真をご紹介したが、山ばかりを撮影したアルバムがつづいて出てきた。小学生になるかならないかの自身も写っているので、やはりわたしも歩いているはずなのだが、前回と同様にサッパリ記憶がない。海なら、どこの海か必ず憶えているのに山の記憶は曖昧だ。
 周辺の雰囲気からして、どうやら丹沢山系にあるいずれかの登山道入り口あたりの情景だと思うのだが、ひとくちに丹沢といってもかなり範囲が広い。神奈川の県北一帯を、ほぼ覆いつくしているのが丹沢山系(大山含む)であり丹沢山塊だ。写真には、山麓の小流れ(田圃の用水)にあったとみられる水車小屋や、渓谷と思われる川には大きな段差(落差工)がみられ、その途中の風景なのだろう社(やしろ)や寺院も記録されている。だが、いくら写真をためつすがめつ眺めても、わたしにはそこを実際に歩いたという記憶がまったく浮かんでこない。おそらく現代から50年以上も前、1960年代の風景だろう。
 幼い自分が写っていても、親に連れられて歩いた武蔵野各地Click!散歩コースClick!と同様に、いつの間にかすっかり失念しているので、やはりわたしは山々を登ったり歩いたりするよりも、物心つくころから“海男”Click!していたほうが性にあっていたのだろう。情けないことに、写真の中でわたしはカメラに向かって盛んにふざけたりおどけたりしているのだが、記憶の片りんすら残っていない。親にしてみれば、せっかく連れていったのにまったく情けない……とでも思っているだろうか。
 現代の写真で、それらの風景を特定しようとしても、あまりの変わりようで不可能なのは、鎌倉Click!の台山にあったとみられる大叔母の家Click!と同様だろう。家々の姿はもちろん、ヘタをすると地形までが変わってしまっているので、写真と照らし合わせようにも端緒がつかめなかったりする。アルバムにキャプションでも入れておいてくれれば、すぐにも場所が特定できるのだろうが、親父は年齢とともに整理が面倒になったものか、あるいは写真を見ればすぐにどこの風景かがわかっていたせいか、年を追うごとにプリントを並べてただ貼るだけのアルバムが増えていく。
 まず、渓流から引かれた用水の、田圃のすみにあったとみられる川葺きの水車小屋を見てみよう。(冒頭写真) もとより、いまではとうに解体されて存在しない水車だろうが、当時でさえ、すでにめずらしかっただろう水車小屋も記憶に残っていない。小屋の端には、まだ若々しい母親と幼いわたしが立っているけれど、こんな風景はかつて一度も見たことがない。いや、実際に目にしているのだからすっかり忘却したのだろう。
 つづいて、少なくと1ヶ所の寺院の写真と、1ヶ所の社(やしろ)の写真がとらえられている。寺の屋根は、当時、茅葺きを葺きなおしたばかりのようでトタンないしはスレートのように見える。もちろん、境内には誰もおらず、ひっそりと静まり返っているようだ。寺の境内にあったものか、蘭塔(僧の墓石)Click!や朽ちかけた石仏がとらえられている。如意輪観音と見まごう風化した彫刻は、下に三猿が掘られているようなのでおそらく庚申塔だろう。また、境内にはみなデザインが同一な、石仏の六地蔵も安置されていたようだ。
 蘭塔も庚申塔も六地蔵も、いずれも江戸期に建立されたもののように見えるが、年紀を確認のしようがないので不明だ。どこの寺なのかまるで見当もつかないが、廃寺Click!にでもなっていないかぎり、本堂は現在もそのままの姿をとどめていそうだ。わたしは案外、各地にある寺々の様子は記憶にとどめるほうだと思うが、おそらく子どもの印象に残るような本尊(仏像)が本堂内になく(あるいは当日は開帳されていなかったか)、また境内にも記憶に焼きつくような記念物がまったく存在しなかったのかもしれない。
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 一方、撮影された社(やしろ)のほうは、境内に巨木が繁るかなり古くからの聖域のように見える。急峻な渓谷の川沿いに建立されているとみられ、このような地形からするとタタラClick!鋳成神Click!(江戸期には朝鮮の農業神である稲荷神=ウカノミタマへ転化しているケースが多い)、あるいは丹沢の近くにある大山(おおやま)山頂の大山阿夫利社と同様に、山々の神であるオオヤマツミ(大山祇)を奉っている可能性が高いだろうか。江戸期に庚申信仰と習合した、火床の神である荒神がベースにある庚申塔もあるところをみると、鋳成(稲荷)の可能性が高いような気がする。
 鳥居の両脇を見ると、左には明治以降に造られた「忠魂碑」が建っているが、右には写真を拡大すると、おそらく「堅牢地神」と彫られているらしい大きな石碑が建立されている。もともと、仏教に由来する大地をつかさどる神の1柱であり、社(やしろ)ではなく寺に置かれるはずのものだが、神仏習合で社の鳥居脇に奉納されたものだろう。ということは、神仏習合が進んだ江戸期に建立された石碑であり、先の写真にとらえられた寺院と同社とは、非常に近接して建っているのではないか?……という想定もできそうだ。
 社の境内には、拝殿と思われる前に母親がポツンと写っているが、これはわたしが親父のカメラを借りて撮影しているのかもしれない。この社の屋根も、茅葺きからトタンかスレートに葺きなおされて間もないらしく、真新しい光沢が印象的だ。もし火災などで焼けていないとしたら、いまも同じような拝殿の姿で残っているのではないか。
 また、この社の鳥居前や拝殿前などには狛犬や狛狐がまったく見あたらず、単に灯籠が置いてあるだけなので、ひょっとすると秦野や伊勢原など丹沢山系の近くに散在する社に多い、ミタケ(御嶽神Click!=大神=ニホンオオカミClick!)を合祀している可能性もあるのではないか……と、いろいろ推測してはみるのだがサッパリ自信がない。
 上記のような想像をして、さっそく「稲荷神=ウカノミタマ(倉稲魂)」や「オオヤマツミ(大山祇)」、「ミタケ(御嶽神)」などをキーワードに、丹沢周辺の川や渓谷に近い社を検索して探してみると、はたしてこの3神をすべて奉り、加えて食物をつかさどる神のオホゲツヒメ(大宜都比売)やオオクニヌシClick!(子大神=大国主)などを奉っている、寄(やどりき)神社というのが中津川沿いの登山口にあることがわかった。
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 丹沢山系には、中津川と呼ばれる渓流が少なくとも東西に2本あるが、東側の伊勢原の中津渓谷Click!から宮ケ瀬へとたどる中津川ではなく、反対の西側の秦野から松田町をへて北上する中津川のほうだ。中津川沿いを、寄(やどりき)湧水源(現・やどりき水源林)へ向かう山道(現・神縄神山線)の途中に、はたして寄神社(別名:弥勒神社)があった。
 さっそく、GoogleのStreetViewで観察してみると、写真の社(やしろ)はどうやらこの場所のように思えてならない。鳥居の右脇には、神木のようなスギの巨木が生えているのも同じだ。ということは、上掲の寺写真は寄(やどりき)社に近接した弥勒寺ということになるのだろうか? ただし、周囲の風景は大きくさま変わりし、写真では右手に茅葺き農家が残り、左手には軒の低い昔の商店のような家が写っているが、現在の寄社は右手に居住タイプの駐在所が設置され警官が常駐しているようだ。
 この道路を、そのまままっすぐ山に向かって渓流沿いを北上すると、落差20mほどの滝郷の滝があるが、その周辺域は飲料に適する湧水にめぐまれており、キャンプ地には最適な場所だろう。ちなみにクルマで出かけるキャンプ場(オートキャンプ)など、当時はほとんど存在していない。(丹沢山系は国定公園であり神奈川県の自然公園でもあるので、現在でもクルマは制限されオートキャンプ場は少ないかもしれない) だが、写真を見ているわたしには、まったく憶えのない山道風景がつづく。
 写る母親の服装からして、沢沿いを登りながら滝郷の滝や清兵衛の滝まで歩いていったとは思えず(登ったとすれば写真が残るはずだ)、また親父が30kgほどはあった当時のテントやキャンプ装備を背負っていそうもないので、おそらく日帰りの気軽なハイキングだったのではないか。3人ともやたら軽装なので、寄(やどりき)橋あたりから斜面を登って、檜岳(ひのきだっか)や鍋割山稜へ取りついたとも到底思えない。
 おそらく、寄社の手前に昔からあるバス停あたりで下車し、そこから中津川をさかのぼりながら寄(やどりき)湧水源とその周辺を散策し、ときに河原へ下りて遊びながら、5km前後の山道(当時:現在は途中までクルマが上れるよう山道が拡幅され、奥まで舗装されている)を往復したのではないだろうか。だが、これはあくまで推測にすぎない。
 箱根の旧・東海道(箱根旧街道)のように、非常に疲労が激しくつらい思いをしたとか、なにか子ども心に残る楽しい出来事があったとかではなく、単に渓流沿いの山道を歩いただけでは、印象に残らないハイキングClick!のひとつとなり、記憶が薄れていったのだろう。
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 とはいえ、以上の場所特定はあくまでもわたしの推測であって、これらの写真がほんとうに松田町の中津川沿いに展開する丹沢風景なのかどうか、つまるところ不明のままだ。実際に歩いてからゆうに半世紀以上が経過しているので、どなたか(ヤマジョの方?)、この一連の写真にとらえられた風景に見憶えのある方がおられれば、ご教示いただければと思う。

◆写真上:現在では観光地に保存されたもの以外、見ることがなくなった水車小屋。
◆写真中上:境内に蘭塔や六地蔵、庚申塔などが確認できる山寺。
◆写真中下は、寄(やどりき)社ではないかとみられる社と現在の寄神社の入り口。は、同社の鳥居と拝殿とみられるが狛犬も狛狐も見あたらない。
◆写真下:山道に入るとガスがでたようで、かなり川幅のある渓流の落差工。

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コーヒーが欲しい敗戦国と緑茶が欲しい米軍。 [気になるエトセトラ]

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 JAZZのハービー・マン(fl)の曲に、「Turkish Coffee」Click!という楽しい曲がある。『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)という、めったにJAZZ喫茶Click!でもリクエストされることのない、とても地味ィ~なアルバム収録の自作のナンバーだ。日本では、むしろ「Uskudar」のほうが有名だろうか。
 ハービー・マンも、かなりコーヒーClick!好きだったようだが、米国のコーヒーはあまりうまくはなかっただろう。全日本コーヒー協会(JCQA)によれば、コーヒーの産地ベスト5(2022年)は、1位がブラジル、2位がヴェトナム、3位がコロンビア、4位がインドネシア、5位がエチオピアだそうだが、なぜかコーヒーが美味しい国の上位には、これらの国々が入ってこないという不思議な現象がある。やはり、コーヒーClick!の美味しさは水と品質管理、そして淹れる道具立てや凝り方に大きなカギがあるのだろう。
 JCQAによれば、外国人にコーヒーがうまい印象の国はどこかと近年アンケート(あるいはインタビュー?)をとると、日本とオーストリア、イタリアの3国を挙げる人が多いそうだ。なるほど、コーヒーにこだわりをもち、豆や水の質、炒り方、道具類などに凝る、ちょっとヲタッキーで凝り性の人たちが多くいそうなところが、美味しいコーヒーを飲ませる国……ということなのかもしれない。それに、クセのない美味しい水や、美味しさを保つ豆の厳重な品質課題も、もちろん重要なテーマなのだろう。
 物書きには“コーヒー中毒”の人が多いらしく、1日にマグカップで6杯も7杯も飲まないと気がすまない作家やライターたちの話をよく聞く。上落合581番地(1918~1927年)からしばらく外遊のあと、すぐ東隣りの区画である上落合2丁目569番地(1932年~)の家で暮らした詩人の川路柳虹Click!も、そんなコーヒー中毒のひとりだったようだ。大正期に、1杯のコーヒーを詠んだ詩「珈琲茶碗」を残している。
 1921年(大正10)に玄文社から出版された、川路柳虹『曙の声』から引用してみよう。
  
 白い船のやうにかがやく/硬質の土器/その上にかかれた唐草は/朝の光りに花と見える/なみなみと盛られた/黒い珈琲 一口すするうちに/かけぬ詩のこと/女のこと……/冒涜の思想の一閃//しかし画家のするやうに/じつとみつめるコツプの/おもてには/ふと青々とした野がうつる/ブラジルの野原で/黒こげになつた百姓が/汗しづくの手に摘む珈琲/さてまたうつるは/陶工の竈 熱い火の室内/ろくろ廻す若人の顔……//げに自分を慰める一杯の珈琲には/これを盛る粗末な茶碗には/汗と悩みと苦労がまつはる/生はどこまでも喘ぎ/歓びは悩みに培はれる/わたしの詩作の汗は/いつも何の幸福をもたらす?
  
 川路流行とその周辺はよく知らないが、確かにコーヒーを飲んでいるときに読んだ本や、流れていた曲や、棚に光るMcIntoshClick!マッキンブルーClick!や、なにかモノ想いに沈んでいた夕暮れや、いっしょにいた友人たちや、もちろん女性たちなど、さまざまな情景がコーヒーの香りとともに甦ることがある。「♪一杯のコーヒーから~夢の花咲くこともある~」(藤浦洸/1939年)という歌は、実は若い恋人たちの歌などではなく、歳をとってから過ぎし日のノスタルジーまたはセレナーデに浸っている情景のようにも感じる。そういえば、「あのときは、ああだったな」と鮮やかに思い出せるのは、コーヒーの香りにまつわりついた「匂いの記憶」が脳を刺激して呼び醒まされるからかもしれない。
 親父は、コーヒーはそれほど好んでは飲まず、ふつうの煎茶や番茶が好きだったけれど、若い学生時代には代用品ではないコーヒーや、ふつうの飯をたらふく食べたくて、敗戦直後から米軍のPXで料理場のアルバイトをしている。いや、正確にいえば飯(めし=コメ)ではなく、米国らしい風味のパンということになるだろうか。だから、世間が食糧難の時代にもかかわらず、それほど困窮して飢えずには済んでいたらしい。
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 米軍の隊内で支給されるコーヒー豆ないしは粉末コーヒーは、ドラム缶や石油缶へ大量に入れたような大雑把かつ品質もあまりよろしくないしろもので(しかし代用品ではなくホンモノだ)、決して現代のコーヒーのように美味しくはなかったと思うのだが、モノがなく代用品ばかり食わされ、飲ませられつづけた親父にしてみれば、それでも美味しく感じたのかもしれない。ただし、日本橋をはじめ京橋や銀座などの食いもん屋を、「母語」ならぬ「母味」として育った親父の舌にしてみれば、戦時中に比べればかなりマシと感じる、あくまでも相対的な「美味しさ」だったにちがいない。
 戦時中の代用コーヒーには、大豆を深炒りして「コーヒー」豆に見立てたり、大麦や小麦などの籾を焦がし、それを布などで濾した茶色い水を「コーヒー」と称して代わりに飲んでいたが、食糧の配給が困難になるとそれらもなくなり、タンポポの根を掘り返して乾燥させ、それを焦がしては「コーヒー」と自己暗示をかけて飲むなど、味も香りも本来のものとは似ても似つかない飲料を代用コーヒーと称していた。もっとも、タンポポの根を焦がして煎じたものは、古くから消炎剤や利尿剤の生薬として用いられており、現在でも薬局やスーパーなどでは自然療法の「タンポポコーヒー」として販売されている。
 さて、無類のコーヒー好きだった大泉黒石Click!も、戦時中はかなり不自由したようだ。おそらく彼の性格からすると、代用コーヒーなどもってのほかで、あまり口にしなかったのではないだろうか。太平洋戦争の初期には、欲しい品物が手に入ったが、「戦争の中頃から、混り物が入って来た。戦争の終わる頃は、完全なニセモノ、よく言へば代用品だけになった」と述懐している。大泉黒石は、コーヒーについて次のように書いている。
 1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.8」(1988年9月29日)より、大泉黒石『終戦と珈琲』から引用してみよう。
  
 それでも(代用コーヒーを)買ふ人があり売る店があって、戦争は終った。私は珈琲の先生ではない。たゞ五十年の経験から、素人の話をするに止るのだが、尋常の心臓を持ってゐる人にとって、これがその日の仕事を仕易くし、生活を楽しくする適度の昂奮を与へることは事実だ。萎弛してゐるエネルギーを鼓舞し胃酸の分泌を促すから消化不良には効果があるらしく、腎臓の作用をも助けるが、潰瘍を何所かに持ってゐる人は刺戟を避けるために余り沢山喫まないことだ。それだけだ。(カッコ内引用者註)
  
 大泉黒石Click!は当初、大豆や無花果(イチジク)の実を焦がしては代用コーヒーを試みていたようだが、「精神的にも肉体的にも効果ゼロだ」とやめている。
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 大泉黒石は、米軍の通訳になればコーヒーや砂糖もたくさん手に入ると思い、敗戦直後に外務省を訪れ、正式に通訳官になっている。当時は、横浜のニュー・グランド・ホテルがGHQの本部になるとウワサされていたので、さっそく外務省が指定した横浜の旅館に滞在している。だが、ロクな仕事がなかったので、すぐに横須賀の米海軍基地へと向かった。ここでなら、うまいコーヒーにも飯にもありつけると思ったのだろう。
 横須賀での大泉黒石の仕事は、海兵隊の兵舎に図書館を創設するというものだった。各国語に堪能で、世界の多種多様な文献に通じていた彼には、まさにピッタリな仕事だったろう。当時の様子を、「黒石廻廊/書報No.8」の『終戦と珈琲』からつづけて引用しよう。
  
 これがアメリカの兵隊に塗れて九年何ヶ月の生活を送る皮切となったのだ。洋酒は兎も角も、珈琲と砂糖とクリームにありついた。この時分のことを「海兵図書館」といふ表題で東京新聞に書いた。海軍から陸軍の騎兵第五連隊に移ったのは十八ヶ月後で、珈琲に不自由はしなかったが、現にアメリカの兵隊が、喜んで使ってゐる石油缶大の缶詰の珈琲は、美味しくないといふ。美味しくないといふのは、女士官と女兵隊で、彼女等は一封(ポンド)入の缶詰を買ってゐる。無償と有償とは違ふだらうし、兵隊の用ひる珈琲を最上品とは思はぬが、美味しくないとは思はぬまんま、朝鮮戦乱が片づいて、何年間か喫みつゞけたのである。
  
 石油缶のような容器に入った船便でとどく大量のコーヒーは、長期輸送による品質劣化と金属の臭気が移り、とても美味しいとは思えないのだが、戦時中はまったく口にできなかった黒石の舌には、それでも「美味しい」と感じたのかもしれない。
 敗戦後、横須賀に勤務していた将校や士官たちと親しくなった大泉黒石は、面白いエピソードを記録している。神奈川から東京にもどった黒石は、さっそく1日「五杯も六杯も喫む」コーヒーの入手に困ることになった。そこで、米軍からのコーヒー横流しルートを探しまわるのだが、おかしなことに米海軍航空隊司令官をはじめ、将校や士官たちは軍支給のコーヒーを飲まずに「緑茶党」だったことが判明している。「緑茶党」の米軍人(特に上級将校)は相当数にのぼり、大量の緑茶が米軍基地へ運びこまれていたらしい。
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 米軍の横流しルートには、コーヒーと煎茶の物々交換によるあまり知られていないルートも、日本のレストランや料理屋を介して存在したのではないだろうか。敗戦国の日本人たちはコーヒーを欲しがり、進駐してきた米軍では「緑茶党」が急増して煎茶を欲しがる不思議な構図。「なんだこれは?」と、大泉黒石は不思議に思い書きとめたのかもしれない。

◆写真上:夏のアイスコーヒーには、丹念にローストしたコーヒー豆が欠かせない。
◆写真中上は、ハービー・マン『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)。は、ペギー・リー『Black Coffee』(Decca/1956年)。は、こんな海の午後風景を観ながらゆったりとJAZZでも聴きたい夏の終わり。
◆写真中下は、1921年(大正10)出版の川路柳虹『曙の声』(玄文社/)と著者()。は、米兵にコーヒーをわたす英兵。は、1950年代の横須賀米海軍基地。
◆写真下:いずれも戦時中によく見られた代用コーヒーで、大豆コーヒー()、大麦コーヒー()、タンポポコーヒー()。コーヒーだと思って飲むと即棄てたくなるが、あらかじめこういう独特な飲み物だと納得して飲めば、それなりの風味が味わえるだろうか?

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陸軍に“占拠”される以前の戸山ヶ原の情景。 [気になるエトセトラ]

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 このところ、陸軍科学研究所Click!陸軍技術本部Click!など、戸山ヶ原Click!がらみのテーマではキナ臭い記事がつづいているので、陸軍に全体を“占拠”される以前の、武蔵野の面影が色濃い同地域について、少しまとめて書いてみたい。
 これまで、戸山ヶ原Click!の風景や情景などについては三宅克己Click!正宗得三郎Click!中村彝Click!中原悌二郎Click!小島善太郎Click!曾宮一念Click!佐伯祐三Click!萬鐵五郎Click!濱田煕Click!などの絵画作品やエッセイについては、機会があるごとに数多くご紹介してきたように思うが、文芸がらみの作品類に登場する戸山ヶ原の記事は、夏目漱石Click!小泉八雲Click!江戸川乱歩Click!岡本綺堂Click!ぐらいしか思い浮かばず、美術分野に比べてかなり少なかったように思う。
 そこで、きょうは文章として描かれている戸山ヶ原について、少しご紹介してみたい。なお、既出の人物たちはできるだけ避け、これまで拙サイトではあまり取りあげてこなかった文学者たちの、「戸山ヶ原風景」の描写を中心にピックアップしてみよう。
  影のごと今宵も宿を出でにけり 戸山ヶ原の夕雲を見に  若山牧水
 若山牧水Click!が、早大近くの高田八幡(穴八幡)Click!に接する下宿から、下落合方面へ散策にやってくる様子を、『東京の郊外を想ふ』(改造社『樹木とその葉』収録/1925年)を引用しながら18年ほど前に記事Click!にしている。戸山ヶ原の夕暮れに、かけがえのない美しさを感じたのは若山牧水Click!だけではない。大久保町西大久保205番地に住んだ、フランス文学者の吉江孤雁(喬松)もそのひとりだった。1909年(明治42)に如山堂から出版された、随筆集『緑雲』より晩秋の風景を少し引用してみよう。
  
 或夕方私は戸山の原へ出て、草の深く茂つた丘の上へ登り、入り日の後の鈍色の雲を眺めて立つてゐた。すると不意にけたゝましい音をたてて、空を鳴きつれて行くものがある。驚いて見上げると、幾百かの群鳥が一団となつて、空も黒くなるばかりに連なつて行くのであつた。それは私の立つてゐる丘から、さまで隔らない空の上であるから、羽音まで明らかに聞えて怖ろしい位であつた。(中略) 其渡鳥が過ぎた翌日であつた。夕嵐が烈しく起つて原を吹き、杜を吹き、枯草を飛ばし、僅かに残つてゐた木の葉を挘ぎちぎり、雲の中から霰がたばしつて来た。もう秋の終り、今日よりは冬の領ぞ、とやう感ぜられた。私は又一人、嵐に吹かれながら野路を辿つて行つた。
  
 渡り鳥はおそらくカリやカモの群れであり、近くの自然に形成された湧水池や、田畑にある溜池などへ北の国から飛来したものだろう。
  ひとところ夕日の光濃くよどむ 野の低き地をなつかしみ行く  前田夕暮
 同じく、戸山ヶ原の夕暮れをめでた歌人に前田夕暮Click!がいる。大久保町西大久保201番地に住んだ前田夕暮は、戸山ヶ原を含む大久保を「第二の故郷」として愛した。1940年(昭和15)に八雲書林から出版された前田夕暮『素描』から、その様子を引用してみよう。
  
 私は西大久保に明治四十三年から昭和九年六月まで二十五年間の間棲んでゐた。(生れた村には十六、七年しかをらなかつた) で、西大久保は私の第二の故郷であつた。その第二の故郷に棲みついた長い「時」のながれのなかの戸山ヶ原こそは、いろいろの意味で親しい交渉をもつてゐた。若し、私の過去の作品のなかから、この戸山ヶ原を削除したならば、可成り淋しいものになるにちがひない。私はこの戸山ヶ原を夕日ヶ丘といひ、またただ草場とよんでゐた。(中略) 私はよく戸山ヶ原に行つた。その頃の戸山ヶ原は、高田馬場寄りの東南一面、身を埋めるばかりの草原であつた。その草原のなかを細い一本の路が雑木林のはしをうねつて戸塚の方に通つてゐた。秋になると、その野路をコトコトと音をたてゝ荷車を挽いた農夫が行つた。
  
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 吉江孤雁の西大久保205番地や、前田夕暮の同201番地は山手線・新大久保駅も近い、現代でいえば金龍寺墓地の周辺にあたる住宅街であり、当時は秋になるとスズムシが鳴き、空には渡り鳥の群れがいきかう、夕日がとびきりキレイな郊外の閑静な住宅地(現・大久保1丁目界隈)だったろう。大久保通りを越え、少し北へ歩けば戸山ヶ原の広大な草原や雑木林が拡がり、静かに歌作をするには最適な散策地だったにちがいない。
 ちなみに、上記の住所は新大久保駅から220mほど東へ歩き、大久保通りから南へ数十メートル入ったあたりの番地に相当する。つまり、現代では周囲を“韓流”商店に囲まれ、そこから南へ200mほど歩けば新宿の歌舞伎町という、とんでもなく賑やかな立地になってしまった。金龍寺の山門脇には、集まる観光客の多さや騒音に怖れをなしたのだろう、「檀信徒以外立入禁止」「撮影禁止」の立て看がいかめしく設置されている。大久保の文士たちが現代に現れたら、きっと目をまわして卒倒するにちがいない。
 明治末の戸山ヶ原について、小説家で詩人の岩野泡鳴との間で恋愛のゴタゴタを抱えていた作家・遠藤清子(のち岩野清子)は、1915年(大正4)に米倉書店から出版した『愛の争闘』に収録の「大久保日記」で、戸山ヶ原を次のように描いている。
  
 明治四三年六月八日 夕ぐれの戸山の原を一緒に散歩した。夕陽が小さい鳥居の立つてゐる森の間に沈みかけてゐた。目白につゞく一帯の麦圃はもう充分に熟してゐた。馬鈴薯畑には白く花がついてゐた。雲雀が私達の頭上で囀つてゐた。
  
 「一緒に散歩した」のは、もちろん恋愛相手の岩野泡鳴だ。このとき岩野には妻があり、9歳年下の遠藤清子とは大久保で同棲生活を送っていた。「小さい鳥居」とは、皮肉なことに大久保通りをはさんで金龍寺の北東に建っていた、戸山ヶ原の夫婦木社(現・大久保2丁目)のことだろう。草むらから、空へ垂直に飛びたつヒバリの声を聞きながら、戸山ヶ原を複雑な想いを抱いて歩くふたりだったのではないだろうか。
 戸山ヶ原といえば、戸川秋骨の文章をどこかで読んだ方もおられるだろうか。田山花袋Click!永井荷風Click!とともに、戸山ヶ原の風情を記録したひとりだ。1913年(大正2)に籾山書店から出版された、『そのまゝの記』収録の「霜の朝の戸山の原」から引用しよう。
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 戸山の原は、原とし言へども多少の高低があり、立樹が沢山にある、大きくはないが喬木が立ち籠めて、叢林を為した処もある。そしてその地上には少しも人工が加はつて居ない。全く自然のままである。若し当初の武蔵野の趣を知りたいと願ふものは此処にそれを求むべきであらう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽はれて居て、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人の擅まゝ散策するに任す。四季の何時と言はず、絵画の学生が此処其処にカンヴァスを携へて、この自然を写して居るのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊園地である。その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものがある。
  
 物音が途絶えたような静謐な住宅街と、昔日の武蔵野の姿をとどめた戸山ヶ原の存在は、多くの文学者や画家たちを惹きつけてやまなかったようだ。
  ねがはくば戸山が原の赤樫の かげに木洩れ日あびて眠らむ  並木秋人
 文人たちが、戸山ヶ原を北にのぞむ西大久保や東大久保、あるいは山手線の外側にあたる百人町へ参集したのには理由がある。明治期のベストセラーとなった1冊、『武蔵野』Click!を著した国木田独歩Click!もまた大久保に住んでいたからだ。明治末の当時、36歳で病没したこの作家の人気は衰えず、彼の面影を慕って大久保界隈はさしづめ文士村のような様相をていしていた。また、東京郊外だったこともあり、家賃や物価が安かったのも、貧乏暮らしが多かった作家や画家たちを惹きつけた理由だろう。
 1999年(平成11)に岩波書店から出版された、歌人で国文学者の窪田空穂『わが文学体験』から、国木田独歩の家を訪ねた様子を引用してみよう。
  
 とにかく当時の西大久保は、貧しい者の代名詞のようになっていた文学青年の好んで住んでいた所で、私には親友関係となっていた吉江孤雁、前田晃、水野葉舟など、みな西大久保の小さな借家に住んでいた。誰も内心には、一種の寂蓼感を蔵していたので、よく往ったり来たりしていた。(中略) 独歩の家は、私達仲間とほぼ同じ程度の小家であった。一間道路に面して、青垣根で仕切った三室か四室くらいの平屋であった。そのころは貸家は幾らでもあり、したがって家賃も安かった。独歩の家は家賃十五円程度の家で、二十円はしなかったろうと見えた。書斎は広く、八畳ではなかったかと思うが、これが家の主室で、客室でもあり、寝室でもあったろう。装飾品は何もなく、机が一脚すわっているだけで、がらんとして広く感じられた。
  
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 戸山ヶ原は、大正期に入ると山手線の内側(東側)には、陸軍の近衛騎兵連隊Click!が駐屯し、大久保射撃場Click!軍医学校Click!戸山学校Click!第一衛戍病院Click!などをはじめ多種多様なコンクリート施設が建設されていく。昭和に入ると、それまでは「着弾地」などと呼ばれて建物が少なく、子どもたちの格好の遊び場や大人たちの散歩道となっていた山手線の外側(西側)の戸山ヶ原にも、陸軍科学研究所・技術本部Click!のビル群がひしめくように建設されていく。江戸川乱歩Click!の作品に登場した、戸山ヶ原の大きな目印だった「一本松」Click!も、陸軍科学研究所の敷地が北へ大きく拡張されるにつれ戦時中に伐採されている。

◆写真上:戸山ヶ原を東西に分ける山手線で、ビル側が明治~大正期の射撃演習場跡。
◆写真中上:戸山・大久保地域に残る、昔日の戸山ヶ原の面影いろいろ。
◆写真中下は、西側の戸山ヶ原から戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)へ移設された天祖社Click!は、昔日の戸山ヶ原を想像させる風景いろいろ。
◆写真下は、明治期と変わらない昔ながらの戸山ヶ原風景。は、いまも残る防弾土塁のひとつ。は、1931年(昭和6)に制作された川瀬巴水『冬の月 戸山ヶ原』。

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