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「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。 [気になる下落合]

番町上空から原宿方面.jpg
 拙サイトでは、これまで1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が起きた際、被災地をスケッチしてまわった有島生馬Click!と同道した竹久夢二Click!や、被災地を写生めぐりした河野通勢Click!佐伯祐三Click!についてご紹介してきた。この中で、佐伯祐三Click!は東京では聞き慣れない大阪方言が災いしたのか、デマを信じた自警団Click!から地元の人間ではない「不穏分子」とみられ、暴行を受けているとみられる。したがって、その際に自警団に没収されたものか、関東大震災のスケッチ類は残されていない。
 竹久夢二Click!は、有島生馬Click!と同行してたので自警団から誰何(すいか)ぐらいはされているだろうが、その知名度の高さから危害を加えられるようなことはなかった。被災地で見たこと聞いたこと経験したことを、同年9月14日~10月4日にかけ都新聞に画文記事『東京災難画信』として、ほぼリアルタイムで連載している。
 多くの画家たちClick!が、特に被害が大きかった東京市街の被災地をめぐっていたとき、蕗谷虹児Click!はどこでなにをしていたのだろうか。前年より、宝文社から雑誌「令女界」が創刊され、その表紙イラストや物語・詩の挿画、絵はがきなどの仕事が多忙をきわめていた時期と重なるときに、関東大震災は起きている。蕗谷虹児の描く女性たちは「令女型」などと呼ばれ、他の挿画家たちの絵とは区別され特別視されるようになっていた。ちょうど、竹久夢二が描くはかなげな女性たちを「夢二型」と称したのと対照的に、彼の作品は大正デモクラシーとモダニズムを体現した女性たちの代名詞となっていた。
 蕗谷虹児Click!は1923年(大正12)、湯島天神近くの上野広小路も近い本郷区坂下町(現・文京区湯島3丁目)の借家に、最初の妻である川崎りんといっしょに住んでいた。この借家では、3月には子ども(長男)も生まれ、4月には川崎りんとの婚姻届けを出している。父親は前年に病没していたが、ふたりの弟たちとはいっしょに暮していた。
 この本郷坂下町の家について、蕗谷虹児の幼年期から青年期にいたるまでをたどる、1967年(昭和42)に出版された自伝小説『花嫁人形』(講談社)から少し引用してみよう。
  
 本郷坂下町に、吟味した材料で、自分が住むために新築している、大工の棟梁の家があった。/「こんな綺麗な新築の家に、余命いくばくもない父を、住まわせることができたらどんなによかろう。」と、一彦は思ったので、断られるのを承知のうえで、人を介して「向う二年間だけでよいから、特に貸し家として貸してもらえないものか。その代わり、家賃は出せるだけだす。」と交渉させると、/あの家は、ごらんのとおり貸し家普請ではないのだが、わしの建てた家が、それほど気に入ってくれたのなら貸してあげてもよい。」と、家主の棟梁が言ってくれたので、一彦は、言いなりの手金を払うと、この新築の家の壁の乾くのを待って、谷中の間借りの部屋から引っ越して行った。その後を追うようにして、りえ子の母が、りえ子を伴れて手伝いに来てくれた。
  
 「一彦」が自身の分身である蕗谷一男(虹児)であり、「りえ子」が結婚していっしょにパリへ渡航することになる最初の妻の「川崎りん」だ。このとき、家具類を「上野Mデパート」に注文したとあるが、上野広小路の松坂屋デパートだろう。
 貸家普請ではなく、大工の棟梁が自宅用に建てた住宅で、造りも強固だったのだろう、大震災でもたいした被害はなく、また火災の延焼からもまぬがれている。蕗谷虹児にとって、本郷区坂下町は以前から見馴れた街だったろう。彼は極貧時代に、芝区金杉橋にあった日米図案社に近接する米屋2階の下宿から、当時は本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社(のち講談社)の社屋へ、頻繁に作品の挿画をとどけに通っていたからだ。
蕗谷虹児「生き残れる者の嘆き」.jpg 蕗谷虹児「絶望」.jpg
蕗谷虹児「落ちゆく人々の群れ」.jpg 蕗谷虹児「落陽」.jpg
蕗谷虹児「戒厳令」.jpg 蕗谷虹児「焼跡の月」.jpg
 大工の棟梁が普請したこの家の間取りはかなり広く、ふたりの弟とともに住んでいた金杉橋の3畳下宿や、谷中の間借りで使用していたときの家具調度は、アッという間に片づいてしまったようだ。新築なので掃除の必要もほとんどなく、手伝いに訪れた「りえ子」(川崎りん)母子も手持ち無沙汰だったのではないか。つづけて、従来の下宿から持ちこんだ家具調度類について、『花嫁人形』から引用してみよう。
  
 一彦は一人で苦笑して、芝金杉橋の三畳の間借り時代から愛用してきた、手ずれで杉の木目が現れてきている机代わりの、図板に向かった。/座布団は、破けて綿が出かかっているものを古毛布でくるんだものであったし、座右の火鉢は、台所のコンロと同じ素焼きのものだったのが、長い間の一彦の手垢とあぶらで、今では赤い瀬戸焼の艶になっている。/一彦の背後の壁一坪をふさいでいる本箱も古道具屋で見つけた飾り気のないもので、それへいつかたまってしまった雑多な本がつめ込んであるが、これも部屋の飾りにはならない。何故かというと、一彦に必要な参考書ほど痛(ママ:傷)んでいて、表紙が取れたり、背皮が破けていたからであった。一彦はその本棚に凭れて、この家へ引っ越してきて、まず床の間に掛けた、山樵道人の軸に目をやるのであった。(カッコ内引用者註)
  
 この家で、蕗谷虹児は関東大震災に遭遇している。大震災が起きたときの様子を書いた記録は見あたらないが、前年に父親が死去していたため、彼は妻と生まれてちょうど6ヶ月の長男、それに弟たちとともに大火災Click!と風向きを気にしながら、避難の準備をしていただろう。おそらく、避難先は緑濃い湯島天神の境内か上野公園を想定していたにちがいない。だが、上野山を除いて上野駅周辺や下谷一帯はほぼ全滅状態であり、ヘタに避難していたら大火流Click!に巻きこまれて危うかったかもしれない。
 迫る延焼は、幸いにも蕗谷虹児アトリエまではとどかなかった。周囲が少し落ち着いてからだろう、蕗谷虹児は被災した街々を「転げあるき」(余震や障害物が多かったのだろう)しながら、被害の様子をスケッチしてまわった。ひとりで歩いたのか、あるいは弟たちを連れていったのかは不明だが、さまざまな街角の人物像を写生している。
 大震災の当初は、そのまま悲惨な被災風景と絶望に打ち沈む人物たちを描いていたが、大震災から月日がたち焼け跡にバラックが建ちはじめ、復興への歩みが少しずつはじまると、彼ならではの抒情的な女性や子どもたちの描写が見えはじめる。また、震災当初はおそらく焼け跡の風景自体がモノトーンだったのだろう、モノクロ表現だった震災画集や絵はがきも、復興のきざしが見えはじめたころからカラー印刷に変わっている。もっとも、当初のモノクロ印刷は当然、印刷会社も被害を受けているので、4色分解のオフセット印刷機が破損して使えなかったのかもしれないが。
蕗谷虹児「尋ね人」.jpg
蕗谷虹児「焼土に立つ(焼け跡のしののめ)」.jpg 蕗谷虹児「鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)」.jpg
蕗谷虹児「夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)」.jpg 蕗谷虹児「幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)」.jpg
 竹久夢二は、都新聞に連載(1923年9月14日~10月4日)した「東京災難画信」では、描いた街や地域の情報を記録しているが、蕗谷虹児Click!は特に町名や地域名を記載せず、それぞれの震災画には見たまま感じたままの、被災地の情景タイトルをつけている。したがって、どこの街角を描いたのかは不明で抽象的であり記録的な震災画ではないが、反面、彼はその状況における人々の想いや感情に心を寄せているように見える。彼の描く震災画は叙事的ではなく、どこまでも叙情的なのだ。
 本郷坂下町の焼け残った自宅から、蕗谷虹児はどのように被災地をめぐり歩いたのだろうか。芝金杉橋下宿から、本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社へよく作品をとどけに通っていたことは先述したが(カネがないので市電Click!には乗れず全行程が徒歩だった)、彼がよく歩いて知悉しているこの講談社入稿ルートは、『花嫁人形』の記述によれば金杉橋から芝を抜け、新橋、銀座、日本橋、神田を通って本郷坂下町へとたどるものだった。したがって、震災画を描きに通ったルートも、あらかじめよく知っていたこの道筋がメインだった可能性が高いのではないか。
 すなわち、このルートには東京の繁華街である神田や日本橋、銀座(これらの街々は全滅Click!)が含まれており、震災画のモチーフにするにはもってこいの街々だったと思われるからだ。蕗谷虹児は坂下町の自宅を出ると、南下して外濠(神田川)に架かる昌平橋Click!をわたり、神田や日本橋、銀座の焦土Click!や住宅街の焼け跡を描いてまわったのではないだろうか。もちろん、自宅近くの上野広小路へと出て、下谷地域の上野駅や周辺の街々(上野山を除きほぼ全滅)も歩いているだろう。
 こうして、蕗谷虹児の震災画は記念絵はがきとなり、第1集は『生き残れる者の嘆き』『絶望』『落ち行く人々の群』『落陽』、第2集は『戒厳令』『焼跡の日』『尋ね人』『家なき人々』などなど、震災から間もない時期に発行しつづけている。また、第4集からはカラー印刷となり、大震災の現場を直接表現して伝えるのではなく、被災者たちの感情に寄り添うように描かれた人物中心の表現へ徐々に変化していく。このあたり、画家ではなく挿画家だった蕗谷虹児ならではの表現だろう。
パリの画室1926頃.jpg
蕗谷虹児「花嫁人形」1967講談社函.jpg 蕗谷虹児「花嫁人形」1967講談社表紙.jpg
蕗谷虹児アトリエ19450402.jpg
蕗谷虹児アトリエ19450517.jpg
 いまでこそ、震災の被災地を描いた記念絵はがきなどを発行・販売したら、出版社や画家は顰蹙をかい批判されるだろうが、当時はTVやラジオもなく、地元の新聞も輪転機が破壊されたため、被災地の様子を伝えるメディアがなにもなかった。東京とその周辺にいた多くの画家たちは、その惨状を全国や世界へ、あるいは後世に伝えようと筆をとっている。

◆写真上:1923年(大正12)9月5日に、陸軍所沢飛行第五大隊の偵察機が東京市街地を撮影した空中写真。麹町区の番町上空から西を向いて撮影しており、遠景に見えているのは代々幡(代々木)から原宿にかけての街並み。中央にある西洋館は赤坂離宮(現・迎賓館)で、その向こう側に拡がっているのは神宮外苑の森。
◆写真中上は、震災から間もなく発売された震災絵はがきで蕗谷虹児『生き残れる者の嘆き』()と同『絶望』()。は、蕗谷虹児『落ちゆく人々の群れ』()と同『落陽』()。は、蕗谷虹児『戒厳令』()と同『焼跡の月』()。
◆写真中下は、蕗谷虹児『尋ね人』。は、カラー化された同『焼土に立つ(焼け跡のしののめ)』()と同『鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)』()。は、同『夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)』()と『幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)』()。
◆写真下は、1926年(大正15)ごろパリのアトリエで撮影された蕗谷虹児とりん夫人。背後にはサロン・ドートンヌ入選作の『混血児とその父母』(1926年)と、パリの日本人芸術家たち第3回展に出品する描きかけのキャンバスが見えている。中上は、1967年(昭和42)出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』(講談社)の函()と表紙()。中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲Click!11日前に偵察機F13Click!によって撮影された、空中写真にみる最後の蕗谷虹児アトリエ。は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲Click!8日前の蕗谷虹児アトリエだが、すでに4月13日夜半の空襲で焼失しているとみられる。
おまけ
 手もとにある蕗谷虹児『花嫁人形』が、著者のサイン入りであることに読み終えてから気がついた。捺されている篆刻は、大正後期から用いられている角丸の正方形のもので、パリへ持参したものと同一だと思われる。かなりすり減って何度か彫りなおしているとみられるが、左下の枠が大きく欠けている点や文字のかたちなどから、下落合のアトリエから疎開先の山北町へと“避難”させていた、虹児のお気に入りだった篆刻の1顆なのだろう。
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下落合での制作が15年つづいた上原桃畝。 [気になる下落合]

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 きょうは、めずらしく日本画家を取りあげてみたい。おそらく、蘭塔坂上にアトリエをかまえた岡不崩Click!や一ノ坂上の本多天城Click!の記事以来ではないだろうか。洋画家ばかりでほとんど紹介していないが、落合地域には日本画家も大勢住んでいる。
 下落合473番地にアトリエをかまえていたのは、女性の日本画家・上原登和子(上原桃畝)だ。ちょうど、中村彝Click!アトリエのすぐ西隣りの区画、目白福音教会Click!に建つメーヤー館Click!の南に隣接した位置で、夏目漱石Click!を愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校Click!)に招聘した、大正期には浅田知定邸Click!が建つ広い敷地内にあたる。
 上原桃畝は、大正初期から小石川区原町15番地のアトリエに、1926年(大正15)まで住んでいたことが確認できるので、下落合473番地に転居してきたのは1927年(昭和2)、昭和の最初期だとみられる。そして、面白いことに下落合には1941年(昭和16)ごろまで住んでいたが、同年以降は再び小石川区原町15番地へともどっている。彼女は東京市麻布の出身だが、小石川原町の家は当時のおそらく実家だったのだろう。上原桃畝は結婚をせず、生涯日本画家として独身を張りとおした女性だ。
 上原桃畝は、最初に荒木寛畝に師事したが、寛畝の死後は愛弟子で養子になっていた荒木十畝につづけて師事している。先代師匠の荒木寛畝は特異な日本画家で、江戸期は土佐藩の御用絵師を勤めていたが、明治以降は洋画家に転向している。だが、しばらくすると再び日本画家へと復帰しているので、ひとことでいえば写生を繰り返してデッサンの基礎をしっかり修得した日本画家という、当時としては特別な位置にいた人物だ。その弟子である上原桃畝もまた、デッサンの勉強から入っているとみえて、ときに洋画と見まごうような、3Dの陰影が精確な作品も残している。
 『落合町誌』Click!には、上原桃畝が「邦画家」として人物一覧に掲載されているが、人となりの紹介文がない。彼女について、ここは1913年(大正2)に美術研精会から刊行された「研精美術」9月号収録の、田口黄葵『隠れたる作家上原桃畝女史』から引用してみよう。
  
 此の中(荒木寛畝社中)におつて巍然四囲を顧みず塵俗を超越して向上の一路を辿る女性がある。年歯漸く三十にして家庭和楽を想はず、技術と学芸の研磨に日も猶ほ足らざるが如き女性がある。同塾を訪ふて最も未来を有する閨秀作家はと問はゞ何人も此の女性即ち上原桃畝女史を推すであらう。/女子は性来頭脳の明晰な人で、従つて理智の勝つた人である。言葉を換へて言へば、頭脳の明晰なるが故に感情の興進にまかせて動くことの出来ぬ人である。然して其理智は細節に拘泥せずしてよく大局を摑み、総てを寛容する度量となつて表はれて居る。(中略) 女史は神来の興を駆つて一気画を成す天才的才能を有する人にあらずして、撓まざる努力の推積によつて成る人である。其作に感興の充溢を見る能はずして健全なる意志の発現を見るも亦当然といはなければならない。明晰なる頭脳強固なる意志の一事は万事をなして、哲学に科学に自然の探究に究めざればやまざるの努力を生じ、読書と旅行とに多大の趣味を持たしめて居る。(カッコ内引用者註)
  
 だいだい、上原桃畝の性格やモノの考え方がわかる紹介文だ。彼女は、師の荒木寛畝と十畝の跡を継ぐように、のち東京女子高等師範学校Click!(現・お茶の水女子大学)の美術教師に就任している。文展には何度か入選しつづけ、1919年(大正8)からはじまる第1回帝展にも、日本画部門だけでなく絵画部門全体で唯一の女性画家として入選している。
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 帝展の資料を探していたら、興味深い記事を見つけた。1924年(大正13)に発行された「芸天」(芸天社)12月号で、第5回帝展がらみの記事にも上原桃畝は登場しているが、そのネームの横に中村彝『老母の像』が紹介されている。もちろん、中村彝は帝展無鑑査で審査員にも任命されていたが、同年の上野竹の台で第5回帝展が終了した1ヶ月後、1924年(大正13)12月24日に下落合464番地のアトリエで死去している。
 また、同記事の下には、のちの敗戦直後に下落合の蘭塔坂上に住んでいたとみられる、鎌田りよClick!のもとへ通うことになる平沢貞通Click!(平澤大璋)が、京橋の日米ビルディングで個展を開催するという記事も見えている。そのほか、落合地域にゆかりの深い洋画家たちの名前が多数登場しているので、ことさら目を惹いた記事だった。
 では、第1回帝展で唯一の女性画家として入選した上原桃畝の様子を、1919年(大正8)10月11日に発行された読売新聞から引用してみよう。
  
 帝展の紅一点
 日本画洋画彫刻三部を通じて唯一の閨秀入選者/夢の如く喜ぶ上原桃畝女史
 日本画、洋画、彫刻三部を通じて入選せる女性は、僅かに日本画に六曲片双の『春光』一点を以て選ばれた上原桃畝(三八)女史一人である△此名誉ある女史を入選発表と共に昨日午後四時小石川原町の自宅に逸早く報を齎すと、流石に包み切れぬ嬉しさを見せて女史は語る 「私が? 私一人ですつて? まるで夢のやうです。私は故荒木寛畝さんに就いて習ひましたが、先生の亡き後は十畝さんにもお世話になつてゐます△文展の第四回に『つつじ』を出して入選しました、其後近年まで出品しませんでしたが一昨年来又出すやうになりました 今回入選の『春光』は寒竹に梅を配した構想で、出来るだけ青くせずに、日光を出さうと勤めました、製作には八月二十四日から△一月位かゝりました 大変厳選だといふ話ですから、無論駄目と思つてゐましたのに、本当に夢のやうです、十畝さんの退かれた後は女子高等師範学校に勤めて外の方と共に一週に三日宛図画科を受持つてゐます、家は母と姉夫婦と其の子供とで五人暮らしです△師匠の寛畝さんも私の売残りは困つたものだと屡云つてゐらつしやいました」
  
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上原桃畝「六月の花園」第20回読画会展.jpg
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 上原桃畝から、師の「売残り」などという言葉を引きだすのが、男性記者による当時のインタビューらしいが、この記事からも小石川原町の家はやはり実家だったらしい様子がわかる。彼女はこのあと、実家を出て独立し下落合473番地へアトリエをかまえて転居してくるわけだが、このあたりの事情は中村彝も頼りにしていた、画壇の動向Click!に詳しい日本画家で洋画家でもある夏目利政Click!あたりがよく知っていそうな気がする。
 また、大正期には広大な敷地だった下落合743番地の浅田邸だが、1926年(大正15)に浅田知定が死去すると相続のためか分割され、敷地内には三間道路が敷設されている。分割された14敷地の中のいずれかが上原桃畝のアトリエだが、1938年(昭和13)作成の「火保図」に掲載されたネームには、残念ながら上原邸は採取されておらず見あたらない。おそらく、名前が不記載の6邸(無記名7邸のうち1邸は根岸邸なので、差し引き残り6邸)のうちのいずれかが上原桃畝アトリエだろう。
 下落合に転居するまで、上原桃畝は日本美術協会や日本画会、文展、帝展、帝国絵画協会、読画会などへ出品して入選を繰り返している。また、下落合では1928年(昭和3)5月に日本画会「翠紅会」の結成に参加し、主要メンバーのひとりとして活躍していた。彼女は、ときにスキャンダラスな洋画の女性画家たちとは異なり、いつも女性画家とともに行動していたらしく、旅行や外出も同輩の女性画家とよく待ち合わせては出かけていたようだ。上掲の「明晰なる頭脳強固なる意志」という人物評を見ても、自尊心が強く自身を律して、自我を貫きそうな強い意志力を備えた女性像を連想させる。
 画家仲間の三木初枝と連れだち、当時の師宅を訪れた様子を1923年(大正12)に大日本藝術協会から刊行された、「藝術」2月号の荒木十畝による談話から引用してみよう。
  
 寒き暁から飛出して清水公園から日比谷公園へと、三四ヶ所を雪のよささうな所を廻つて歩いた、老人の冷水とでも云ふのであらう、どこへ行つても画師には出会はぬが、素人の写真道楽家のやうなのが、至る所でパチパチやつて居た、日比谷公園では年老つた婦人が寒さうな格講して雪の写生をして居た、これも老人の冷水の連中だと思ふた。/その日の午後我家の雪見にとて、上原桃畝、三木初枝両女史が訪ねてくれた、尺余の雪に朝来またまた降足したので、この日一日の風情に別条はあるまいと思うて居たが、午後には木の枝には雪が落着いて居なくなつた、その両女史の写生を乞得たのが、本誌の挿画となつた。
  
 同誌には、上原桃畝『軒のにはとこ』と題する色紙の雪景色が掲載されている。
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 1941年(昭和16)には、上原桃畝の住所は小石川区原町15番地にもどっているので、母親が病気かあるいは亡くなりかしたのだろうか。日本画家は、洋画家とは異なりリアルな風景画は描かないだろうが、『軒のにはとこ』のように庭先のスケッチぐらいは残しているかもしれない。およそ15年ほどつづいた、上原桃畝の下落合におけるアトリエ生活だった。

◆写真上:上原桃畝のアトリエがあった、下落合473番地界隈の現状。
◆写真中上は、蝶を追うネコを描いた上原桃畝『題名不詳』(部分)。は、第5回日本画展に入選した同『野路』。は、東京女子高等師範学校の教師だったせいで女弟子が多く日本画と洋画の双方を描いた荒木寛畝()と弟子の上原桃畝()。
◆写真中下は、1919年(大正8)10月11日刊行の読売新聞。は、第20回読画会展に入選した上原桃畝『六月の花園』。は、1924年(大正13)発行の「芸天」12月号に見る上原桃畝の動向で、見開きには中村彝や平沢大璋の情報が掲載されている。
◆写真下は、下落合時代の1928年(昭和3)5月撮影の「翠紅会」記念写真。左端が上原桃畝で、後列右からふたりめが親しかったらしい三木初枝。中上は、1931年(昭和6)出版の大山広光『文帝展二十五年史』(美術批評研究社)掲載の上原桃畝。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合473番地界隈。は、1923年(大正12)2月8日の大雪の日に三木初枝とともに荒木十畝邸を訪れ、庭先で色紙に描いた上原桃畝『軒のにはとこ』。

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『落合町誌』の基盤となった『落合町現状調査』。 [気になる下落合]

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 東京市では、1932年(昭和7)10月に迫った東京市35区制Click!を目前に、新たに形成される20区内に含まれる町村の概況について、その実態調査を前年に実施している。市庁舎内へ、新たに臨時市域拡張部という部署を新設して、市域へ新たに編入される町村へ調査員を派遣したり、さまざまなデータを収集させたりした。
 1年後に、淀橋区(現・新宿区の一部)へ編入される落合町にも、東京市臨時市域拡張部から派遣された調査員が、町の様子を視察したり多種多様な自治データを収集したりしている。そして、1931年(昭和6)11月に「市域拡張調査資料」として、折りこみ地図を含めると50ページ弱のコンパクトな冊子にまとめて刊行していた。ガリ版(謄写版)による手刷りで作成された調査資料冊子は、東京市臨時市域拡張部の編集による『豊多摩郡落合町現状調査』と名づけられ関連部局に配布されている。
 ところが、この資料に目を通していると、すでにどこかで読んでいる、あるいはどこかで一度目にした統計資料(表組のレイアウトまで酷似)、あるいは分類表など既視感を強く感じた。そう、1年後の1932年(昭和7)8月に落合町誌刊行会から出版される、『落合町誌』Click!の編集のしかたやレイアウトにそっくりなのだ。いや、このいい方は逆さまで、『落合町誌』の「第四篇 現勢」でで綴られている「人口」や「行政」、「財政租税」「教育」「寺社及教会」「衛生」「各種団体」「交通」「産業」「電燈瓦斯水道」などの記述や統計資料、レイアウトなど、ときに文章までが、前年に東京市臨時市域拡張部が編集した『豊多摩郡落合町現状調査』と、非常によく似ているのだ。
 つまり、『落合町誌』(1932年)の「緒言」、「第一篇 維新前の沿革及歴史的考証」「第二篇 寺社の沿革」「第三篇 明治維新後期」の前半73ページまでと、後半の「第五篇 人物事業編」の216ページから最後まではオリジナルの制作コンテンツだが、真ん中の74ページから215ページ(141ページ分)まで、すなわち落合町の「現勢」を語る中心的な内容は、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』から、よくいえばそのままの引用または流用、悪くいえばほぼ丸ごとパクリの編集に近い構成になっていることがわかる。
 いい方を換えれば、『落合町誌』の編集者兼発行者(編集責任者)である近藤健蔵は、落合町の「現勢」は東京市臨時市域拡張部による調査結果の内容をおおよそ踏襲し、落合町の歴史や暮らしている住民たちの紹介に力点を置いて編集したかった……ということになるだろうか。では、落合町の現勢について、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』に収録された「町勢現況」から少し引用してみよう。
  
 妙正寺川ノ西南大字上落合ノ地ハ中野町野方町ニ起レル岡脈連亘シテ一帯ノ高台ヲナシ東北部下落合ノ地ハ目白台ニ連ル一帯ノ高阜ニシテ小丘陵ノ起伏スルモノ多ク展望開ケ且ツ樹林ニ恵マレ最適ノ住宅地タリ。又町ノ北方大字葛ヶ谷ノ地方ハ概シテ平坦ナル畑地ヲナセリ。(中略) 前述セル如ク本町ノ地勢ハ妙正寺川ノ流域及大字葛ヶ谷ノ地ヲ除ク外ハ土地高燥ニシテ起伏ニ富ミ展望開ケテ好個ノ住宅地ヲナス。サレバ全町ヲ通シテ良住宅多ク目白文化村、翠丘住宅地等特ニ名高シ。/交通機関ハ省線目白駅ノ便ヲ有スルト共ニ西武電車線ノ町内ヲ縦貫スルモノアリ。然レドモ町ノ西北部地方ハ未ダ交通上不便ナル地域アリ。/将来此ノ方面ニ交通機関ノ完備スルハラバ本町ノ殆ンド全部ハ住宅地トシテ発展ヲナスベキ状勢ニアルモノナリ。
  
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豊多摩郡落合町現状調査教育.jpg
 下落合の南側と上落合の東側を流れる、旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)の流域については存在が忘れられているし、目白文化村Click!と同時期(1922年)に開発がスタートした近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!の記載がないが、「翠丘住宅地」(ママ:翠ヶ丘Click!)すなわち今日では十三間通りClick!(新目白通り)の貫通で分断されてしまい、ほとんどネームが伝承されなくなってしまった、六天坂Click!から西坂Click!あたりにまでかけての丘陵地帯に形成された住宅街については触れている。
 もうひとつ、「西武電車線」という地元ではあまり聞き慣れない用語がつかわれているが、同書に挿入された地図には「西部電気鉄道」と記載されているので、地元や同時代の各種地図、あるいは当時のマスコミの一般用語として普及していた「西武電鉄」Click!と書くところを、新宿駅から荻窪方面へ通っていた通称「西武電車」Click!(西武軌道線)と混同したか、あるいは西武鉄道が媒体広告を使い繰り返し浸透を図った、「西武電車」Click!の愛称(戦前は普及しなかった)を踏襲したものだろうか。
 さて、『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)に掲載された多種多様な統計表は、1930年(昭和5)に実施された国勢調査にもとづいて掲載されている。それを、ほぼそのまま表組のかたちや項目、レイアウトまで借用したのが『落合町誌』(1932年)の「第四篇 現勢」だ。これに、数字が判明している表には1931年(昭和6)分の実数値を追加して掲載しているが、不明なものは東京市の表組のまま1930年(昭和5)現在で収録している。ほかに、町長や町会議員、町議会、各尋常小学校や教育機関の紹介、在郷軍人会の活動などを付加し、「第四篇 現勢」は東京市の資料に比べやや肉厚に編集されている。
 編集責任者の近藤健蔵は、公的資料を参照すればすぐに情報を入手できる「第四篇 現勢」の大半の情報は、東京市が調べた『豊多摩郡落合町現状調査』をほぼそのまま踏襲し、むしろ歴史や名所・史跡の紹介、そして住民や町内の事業紹介に注力したかったように見える。近藤健蔵は、もともと東京市電気局に勤務しており、退職してからは上落合721番地で化粧品・文房具店を開業している。その人物像を、『落合町誌』のほぼ最後に掲載された文章から引用してみよう。
  
 栗原新和会副会長 近藤健蔵  上落合七二一
 軒滴石を穿つと言ふ諺がある、人生に於ける如何なる小さな努力でも其の継続に依つて相応の結果を得、収穫を挙ぐると云ふ事は疑もない事実である。之が氏の社会公共に対する思想行動の核心を為すものにして、亦方今町衛生委員、栗原新和会副会長、第二小学校児童保護会評議員として郷党の間に声望ある所以に外ならない、氏は近藤兼吉氏の長男にして落合の地に生れ、大正二年東京市電気局に勤め、昭和元年退職後化粧文房具商を経営する、努力鉄膓の士である、一面前記公職に推されて治績尠からざる而巳乃木講社の先達と為り或は自治研究会の組織に介在する等、孜々(しし)として当町文化の発展に資するところ多大である、(以下略)
  
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 東京市の電気局に、わずか13年ほどしか勤務しなかったのは、おそらく先代の跡を継ぐためだったのではないか。先代の近藤兼吉は、上落合の地主だったのかもしれない。彼は上落合にもどり、「化粧文房具店」を開業している。
 上落合721番地は、ちょうど中井駅の南側、寺斉橋Click!をわたってすぐ右手の角地だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、その位置に「文具店」のネームを見つけることができる。これが、文房具および化粧品を扱っていた近藤商店だろう。また、『落合町誌』を発行した落合町誌刊行会も同地番となっているので、ここが実質的に同誌編集局の役割りをはたしていたにちがいない。
 編者の近藤健蔵は、同誌「自序」の中で「顧れば本書の編録に着手せしより約半歳」と書いているので、『落合町誌』は約6ヶ月で編纂されたことがわかる。これほど短期間で、400ページを超える町誌を編集・執筆できたのは、まさにベースとして東京市による『豊多摩郡落合町現状調査』が存在したからだろう。しかも、かつて彼は東京市に勤めていた。同誌の「自序」より、もう少し引用してみよう。
  
 然るに落合町には古来其の歴史を語るべき記録がない、発達変遷の跡を知るべき郷土史がない、落合町に生れ、落合町に人と為り、落合町に居住する人々の多数は、愛国の至誠を培ふべき、郷土に関して何等の知識を有たない、之れ不肖自ら揣らずも此の編纂を企画したる所以である、乍併(しかしながら)修史の事業の容易ならざるは史家にあらざるも亦肯定するに難からず、而も短日稿を脱し倉卒編を了したるを以て、精粗繁簡、素より欠陥なきを保せずと雖(いえども)、町史の大本を示し、現勢を述べ、自治政の実態を叙し得たることは、三万町民諸氏の前に捧ぐるに躊躇しない。
  
 これを読んでも分かるが、わずか6ヶ月で出版するには、他資料からの援用が不可欠だったにちがいない。しかも、近藤健蔵は5~6年前まで東京市の職員であり、『豊多摩郡落合町現状調査』の存在は、当時の同僚あるいは来町した調査員から聞いて知っていた可能性が高い。また、だからこそ出版の6ヶ月前、すなわち1932年(昭和7)の2月あたりに執筆を開始し、同年8月の前半に脱稿、8月27日に滝野川で営業していた土井軍平印刷所へと入稿し、8月31日には発行という短い制作リードタイムが可能だったのだろう。
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 近藤健蔵は、もともと文章を書くのが好きだったのではないか。よく作家たちに「商店を経営するならどんな店?」というような昭和期のアンケートを見かけるが、「(古)本屋」や「文房具屋」と答える人が多かった記憶がある。文房具類は、物書きのもっとも身近な道具だ。彼は元来、文章を書くのも読むのも好きだったからこそ、400ページをゆうに超える『落合町誌』を、わずかな期間で編集できたのかもしれない、そんな気が強くするのだ。

◆写真上:西へ入る道路が山手通りの敷設でつぶされた、寺斉橋南詰めの近藤健蔵が経営する化粧文具店があった上落合721番地あたりの現状。
◆写真中上:東京市による、ガリ版刷りの『豊多摩郡落合町現状調査』の内容。
◆写真中下上左は、東京市が発行した『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)表紙。上右は、近藤健蔵が出版した『落合町誌』(1932年)函と背。は、『豊多摩郡落合町現状調査』に掲載の落合町地図。1930年(昭和5)7月には西武電鉄の下落合駅Click!は聖母坂の下に移動しているが、同地図では下落合氷川明神前のままになっている。
◆写真下は、『落合町誌』の中扉()と著者・編者の近藤健蔵()。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる上落合721番地界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合721番地で「文具店」のネームが収録されている。
おまけ
 下落合を取材中に近藤健蔵も目にしてたとみられる、大正期から変わらない下落合風景。
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第三文化村の須藤福次郎邸を拝見する。 [気になる下落合]

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 設計上は和洋折衷館だが、外観がほとんど和館という意匠は、目白文化村Click!の住宅ではむしろめずらしいだろう。洋間は、玄関を入ってすぐ左手(北側)に位置する8畳大の応接室のみで、あとの生活空間はすべて畳敷きの日本間構成となっている。下落合667番地の第三文化村に建っていた、会社役員の須藤福次郎邸だ。
 この住宅が特異なのは、西側の門や玄関のある八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)から見ると1階建ての平屋なのだが、西ノ谷(不動谷)Click!側から見あげると2階建てに見えることだ。つまり、西ノ谷(不動谷)に面した東側の急斜面を削って地階を設置し、実質上は2階建ての住宅となっている点だろう。地階は4部屋を除き、まるで清水寺の舞台のように太い柱が多数設置され、1階部分の居住空間を支える構造となっている。
 須藤邸が、第三文化村における最南端の敷地に建設されたのは、1926年(大正15)の遅い時期だと思われる。同年も押しつまった12月に、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に竣工後の写真や図面が収録されており、須藤家が入居した直後に撮影されていると思われる。設計は猪巻貫一で、施工したのは以前にこちらの記事でもご紹介した、第一文化村の外れで営業していた下落合1536番地の宮川工務所Click!だ。同工務所の社屋は、目の前に拡がる目白文化村や箱根土地本社Click!にアピールするためか西洋館の意匠だが、須藤邸のような純日本家屋の建設も得意だったらしい。
 第三文化村の南側は、西ノ谷(不動谷)をはさんで東西に細長く南へとつづく敷地で、大正末には西側の丘上にはすでに住宅が建てられていたが、谷間をはさんだ東側にはすでに住宅敷地は造成されていたものの、なかなか住宅が建設されなかった。敷地の東側に青柳ヶ原Click!の丘陵があったため、午前中もかなり時間がたたないと陽光が射しこまず、それが住宅建設の遅れた要因だろう。あるいは、投機目的で敷地は売れていたものの、条件が悪くてなかなか転売できなかったものだろうか。1931年(昭和6)に、国際聖母病院Click!聖母坂Click!を建設するため青柳ヶ原の上部が大きく削られてからは、陽射しの障害がなくなり1940年(昭和15)ごろから住宅が次々と建ちはじめている。
 須藤福次郎邸の敷地は、1935年(昭和10)ごろになると銀座ワシントン靴店Click!の創業者・東條舟壽(たかし)の実弟が、屋敷を建てて住んでいたとうかがっているので、須藤邸は建設からわずか10年ほどしか建っていなかったことになる。1936年(昭和11)撮影の空中写真や、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照するとすでに東條邸が確認できるので、仕事の関係から須藤家は新築の家を手放しどこかへ転居しているのだろう。
 須藤福次郎は、第三文化村に自邸を建てたころ日本果実工業社の取締役に就任していたが、1935年(昭和10)にはすでに日和通鉱社の取締役に移籍しており、その後、自身で起業したとみられる日本鉱発社の代表に就任している。ひょっとすると、1935年(昭和10)ごろに日和通鉱社を退社して独立し、日本鉱発社を設立する際、その資金調達のためにせっかく建てた自邸を売却しているのかもしれない。
 1926年(大正15)の暮れに、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に収録の、竣工した「須藤福次郎邸」の説明文から引用してみよう。
  
 東京府下落合町字落合(ママ:下落合)第三文化村 須藤福次郎邸
 同建築物は省線電車目白駅の西北(ママ:西南西)約八丁の地点に在り附近一帯文化住宅を以て一村を作り震災後郊外文化村として面目を一新す 俗に目白文化村又は落合文化村(ママ)とも云ふ 其の内同邸は第三区文化村(ママ)に在り地面の傾斜せるを適当に応用して地下室となし研究室、見本室、書斎、物置等となす 外観美しく室内間取の最も宜しき点多し 応接室は洋式にして居間次の間客間茶の間等は純日本式とす。(カッコ内引用者註)
  
 文中では、「震災後郊外文化村として」と書かれているが、もちろん下落合の目白文化村や近衛町Click!、あるいは落合第一・第二府営住宅Click!関東大震災Click!以前から建設されている。また、松下春雄Click!が画題にしたように「下落合文化村」Click!という表現は地元でも聞いたことがあるが、「落合文化村」はあまり聞かないネームだ。
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 玄関を入ると、左手が洋間の応接室だったことは先述したが、突きあたりの廊下を右に折れると右手(西側)に板張りの台所があり、つづいて8畳の茶の間がある。おそらく、家族はこの茶の間で食卓を囲んだのだろう。茶の間からは、浴室へと入ることができた。また、茶の間を突っきると、庭に面した南側の広い廊下へと抜けることができた。この廊下の右手(西側)には、トイレへの入口があり、トイレは小用と大用に分かれていた。
 玄関を入り、廊下の向かいには3畳の狭い女中部屋とトイレがあり、廊下を南へ歩くと左手(東側)には床のある居間(8畳)に次の間(8畳)、そして床のある客間(8畳)がつづいている。客間は、玄関つづきの廊下からは直接入れず、次の間あるいは茶の間を抜けると入室することができた。この中で、いちばん南側に面し広い廊下に接している客間が、もっとも陽当たりがよく快適な空間だったと思われる。須藤邸の敷地は広いので、南側の広い廊下から眺める庭園も、和式の凝った造りをしていたのかもしれない。
 また、地階は屋内の階段から下りるのではなく、庭を東側へまわると両開きのドアから入ることができたようだ。地階には12畳大の研究室、8畳大の書斎、同じく8畳大の物置、そして3畳大の見本室を利用することができた。書斎や見本室は、それぞれ研究室を通らないと利用できないが、物置は研究室からではなく、応接室や女中部屋のある北側からまわると入口のドアが設置されていたようだ。
 さて、須藤福次郎は研究室や見本室、書斎などでなにを研究していたのだろうか。のちに、鉱業系の企業の取締役へ就任しているところをみると、なにか鉱物関連の研究開発あるいは採集を行っていたのかもしれない。研究室の隣りに見本室が設置されているのも、なにか鉱物関連の成果や採集した標本を展示して訪問客に見せる部屋だったものか。これら地階の部屋は、西ノ谷(不動谷)の急斜面を利用して設計され、東側に面して大きめな窓がいくつも並んで穿たれていたため、昼間なら十分な採光が得られただろう。だから、“地下”の部屋という雰囲気は、まったくしなかったにちがいない。
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 目白文化村の第三文化村Click!は、1924年(大正13)に売り出されたが、早々に全敷地が売約済みとなったにもかかわらず、なかなか住宅が建設されなかった。つまり、関東大震災後に投機目的の“不在地主”が、郊外住宅敷地の買い漁りをしていた時期と販売が重なったため、土地投機の対象にされたからだ。だが、西ノ谷(不動谷)に面した西側の尾根筋、すなわち八島さんの前通りClick!(星野通り)沿いは、大正末から次々と邸宅が建設されている。1926年(大正15)の時点で、北から南へ広い敷地に建つ大塚邸、〇あ井邸(1文字不明)、そして須藤福次郎邸の3棟だ。
 けれども、10年後の昭和10年代になると、これらの邸宅はすでに解体されて、同じく北から南へ吉田博・ふじをアトリエClick!、佐久間邸、そして東條邸へと建て替えられている。その間には、金融恐慌や世界大恐慌をはさんでいるので、他の目白文化村内でも住民の動きが激しい時期だが、須藤邸は1935年(昭和10)ごろまでそのままだったとみられるため、恐慌の影響ではなく別の理由から転居しているのではないかと想定している。
 ここで、面白いことに気がついた。広い須藤福次郎の南側に接しているのは、佐伯祐三Click!がときどき訪問していた笠原吉太郎アトリエClick!だ。同アトリエを訪問しなくても、佐伯祐三は散歩の途中で、建設工事中の須藤邸はよく見かけて知っていただろう。ときに大工たちの仕事を、飽きずにジッと眺めていたかもしれない。つまり、佐伯は工事中の須藤邸へ入りこんで、または竣工して須藤家が転居してくる以前の、まだ無人だった同邸の北側敷地に入りこんで、「下落合風景」シリーズClick!の1作『目白の風景』Click!を仕上げているのではないかという可能性だ。
 あるいは、須藤一家が住みはじめてから、ひとこと須藤家へ断りを入れて邸の北側にイーゼルを立てているのではないか。なぜなら、『目白風景』の手前(画面下)を観察すると、佐伯の背後になんらかの建築物があり、画家が立つ位置へ影を落としているのが明らかだからだ。この“影”が、建設途中の須藤邸か竣工後の同邸かは不明だが、少なくとも1926年(大正15)の暮れには完成していたと思われるので、おそらく同年の晩秋以降に制作された可能性が高い。そして、以前の記事でも触れたが、周囲の草木の様子から冬の情景のようにも思えるので、1926年(大正15)の冬あるいは翌1927年(昭和2)の冬ないし早春のころの仕事のように思える。
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 佐伯祐三は、須藤邸の玄関引き戸をガラガラっと開けると、西ノ谷(不動谷)に面した敷地内で写生をしてもいいかどうか訊ねた。須藤福次郎は出社して不在であり、女中が取り次いで応対したのは奥さんだったろう。夫人は、聞き慣れない関西弁にとまどいながら、汚らしい格好Click!をした絵の具の染みだらけの佐伯を、頭の先からつま先までジロジロ眺めたあと、「よござんすよ。Click! でも、そこらを汚さないでくださいましな」とでも答えたかもしれない。「1時間ほどでっさかい、よろしゅう頼んますわ」という佐伯の息が、まだ陽が当たらず西側の玄関で蔭っているせいか白かった……そんな情景を想像してしまうのだ。

◆写真上:1926年(大正16)の暮れ、第三文化村に建設された須藤福次郎邸。
◆写真中上は、須藤邸の居間。中上は、同じく客間。中下は、同邸の応接室。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる須藤福次郎邸。須藤邸の敷地は広く、母家のあった側が下落合667番地で南側の庭が678番地だった。
◆写真中下は、須藤邸の1階平面図。中上は、同邸の地階平面図。中下は、同邸の八島さんの前通りと谷間に面した側面図。は、南北の側面図。
◆写真下は、須藤邸跡の現状(画面左手)。は、1926~1927年(大正15~昭和2)の冬に制作されたとみられる佐伯祐三『目白の風景』。は、写生中の佐伯祐三。
おまけ
 1938年(昭和13)の「火保図」にみる、西ノ谷(不動谷)に面した第三文化村の邸宅で、すでに3棟とも建て替えられている。下は、西ノ谷(不動谷)に面した須藤邸跡(画面左手)。
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ずっと女性が気がかりな林泉園の青柳有美。 [気になる下落合]

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 秋田県の出身で、関口教会Click!(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で神父をつとめながら、明治女学校Click!の教師として女学生たちに教え、巌本善治Click!とともに女学生の専門誌「女学雑誌」を刊行していた人物に青柳有美がいる。その後、実業之世界社に入社し、雑誌「女の世界」を刊行する編集責任者となった。
この「関口教会」は、1895年(明治28)に関口水道町に設立された、いまは存在しないプロテスタント系の教会であり、現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会とはなんら関係のない組織であるのを、め~めさんよりご指摘いただいた。(コメント欄参照) したがってプロテスタント関口教会につとめていた青柳有美は牧師であり「神父」ではない。以下、「神父」の記述は「牧師」と読み替えていただければ幸甚この上ない。
 「女の世界」は、男も買って読む女性誌として特殊な人気があり、女性の性や恋愛、生理、私生活などについてコト細かに取材・観察した記事内容となっている。拙ブログでは、「女の世界」に出稿した宮崎モデル紹介所Click!の広告を見て応募し、中村彝Click!のアトリエでモデルになった小島キヨClick!のエピソードをご紹介している。そして、小島キヨは辻潤Click!と結婚して落合地域で暮らすことになる。
 その後、青柳有美は新聞記者などをへて東邦電力社員となり、下落合367番地の「近衛新町」Click!松永安左衛門Click!が開発した林泉園住宅地Click!に住み、さまざまな著作の執筆生活に入ることになった。大正末ごろに下落合へ転居してきて、1936年(昭和11)ごろまで住んでいたようだ。前回ご紹介した菊地東陽邸跡Click!から、南東へ直線距離で170mほどのところの西洋館にいた。職業の肩書としては、「東邦電力社員」のほか「文筆業」「恋愛評論家」「女性修身教育家」「女性評論家」などと呼ばれていたようだ。
 また、その著作というのが『女学生生理』(1909年)をはじめ、『世界の新しいふらんす女』(1913年)、『最新結婚学』(1915年)、『女の裏おもて』(1916年)、『男女和合の秘訣』(同)、『女の話と男の話(お夏清十郎 恋の姫路)』(1917年)、『新性慾哲学』(1921年)、『女征伐』(同)、『接吻哲学』(同)、『恋愛読本』(1926年)……などなど、およそ女性をテーマにした妙な本を数多く執筆し、ほとんど“変態”ではないかと思うような文章を残している、落合地域ではめずらしい物書きだ。
 「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪について、ちょうどよい具合だと研究してみた、1913年(大正2)に明治出版社より刊行された青柳有美『日本美人論』から引用してみよう。
  
 日本の地図を披(ひら)いて見ると、名古屋地方は北海道を頭とし九州を尾にして居る本土の中央にある。東京になると早や北に片寄り過ぎる。京都になつても、モウ南に寄り過ぎだ。名古屋地方は実に日本々土の中央で全く中京である。随(したがつ)て、名古屋女の筋肉は南方人の如くカラカラして固つても居らねば、又北方人の如く多量の皮下脂肪に覆はれて、ダブダブしても居らず、肥らず痩せずといふ中庸を得て居ることになる。(中略) 名古屋女の筋肉の発達が、巧に中庸を得て過不足無く、肥つているやうでも緊縮(しま)つたところがあり、観る眼に美しく感ぜらるゝのは無理も無い。(カッコ内引用者註)
  
 こんな文章がエンエンとつづき、「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪がひきしまってちょうどよく、ほかにも別々の章立てで「顎」「唇」「鼠歯」「肌」「皮膚」「鼻」「声」「言葉」「指」「額」「眼」「白膜」「髪」「尻」「胸」「足」はては排泄物と研究が進み、おしなべて「美人」だから具合がいいのだという「研究論文」となっている。
 おそらく、名古屋の新聞社に就職した際、名古屋の女性とつき合いでもしたのだろうか、そのときに味わった感想をそのまま文章化しているようにさえ思える。これを、明治女学校の教師であり、関口教会の神父をつとめていた人物が書いているのだから、「変態教師」で「変態神父」だったのではないかと、あらぬ想像してしまうのだ。
 このように、女性が気になって気になってしかたがない、「筋肉フェチ」か「皮下脂肪(ふくらみ)フェチ」の「美人論」者かと思いきや、妙なところで「女修身」などをもちだして、朝鮮半島の儒教倫理・道徳のようなことをふりまわして蔑視し、それを押しつけようとするので大の「女好き」だけれども、おそらく「女性礼賛者」では決してないのだろう。
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 ところが、そのわずか4年後の1916年(大正5)に広文堂書店から出版された『人情論』では、あれだけ全身から排泄物までベタ褒めしていたはずの「名古屋女」は、「魯鈍」で「ダラシな」く、「ドス黒き顔」をして「肉」ばかりということにされており、「三河女」こそが素晴らしい女ということになっている。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 三河女は智的表情に富めり。名古屋女の如く、魯鈍してダラシなき相貌を有するものに非ず。その飽くまでも智的にして、顔面に鋭敏なる組織と表情とのあるは、是れ実に三河女の特色なり。(中略) 三河女の皮膚の色は、其マレー乃至土蜘蛛血液の不足なるだけそれだけ、名古屋女よりも白し。名古屋女の如きドス黒き顔色は、之を三河女に見るべからず。
  
 「名古屋女」は、すでに「土蜘蛛(つちぐも)」Click!の血が色濃く流れているなどとされてしまい、「三河女」の肌や身体、顔つきこそが白くて美しいということになり、もう途方もなくメチャクチャな内容の「研究論文」となっている。これを素直に解釈すれば、好きだった「名古屋女」にはあっさりフラれてしまい、その後につき合ったのが静岡出身の「三河女」だった……ということにでもなるだろうか。
 繰り返すが、これを明治女学校の教師であり、関口教会の神父だった人物が書いているのだから、青柳有美は女学生や女性信者たちにも“評判”の、「危ない教師」で「危ない神父」だったのではないかと、ほとんど確信的に思えてしまうのだ。
 ところが「名古屋女」につづき、期待の「三河女」も彼にとっては「土蜘蛛」ならぬ「国栖」のトラウマになってしまったものか、大正の後半になると「昨今の日本女は」と国家単位に普遍化し、地方・地域色はもちろん個々人の人格や個性をいっさいがっさい捨象・無視した、根拠薄弱な(自身の体験内でのみ組み立てた狭隘な)一般論(?)に収斂していき、先述した朝鮮半島の儒教的道徳観(「女修身」)のような眼差しで、「女には気をつけろ」と東邦電力の社員たちへ講演・訓示するようにまでなっていく。
 これはわたしの想像だが、細かく観察するような眼差しを女性に向けてはいるものの、実はハナからなにも見ても認識してもおらず、自身が勝手に想い描く理想的な“女性像”(ごく私的な枠組み)が前提として厳然と存在し、それを求めて生身の女性とつき合った結果、それらの“型”にはまった理想が次々と崩れて裏切られ、理想とはほど遠い側面を見いだしたり、相手から愛想をつかされてフラれたりするごとに、地方地域の名を冠した「女」たちが「土蜘蛛」に変身しているのではなかろうか。
 大正後期になると、彼の著作には「名古屋女」も「三河女」も姿を見せなくなり、代わって「日本の女」「仏国の女」というように国家単位による女性一般のくくり(要するに十把一絡げで大雑把かつデタラメな主体設定)がやたら多くなる。青柳成美の基盤となっている女性観について、「巴里の女美術家」つまり女性画家を書いた文章が典型例なので、1913年(大正2)に東亜堂から出版された『世界の新しいふらんす女』から少し引用してみよう。
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 (女性画家は)少しでも名の知れてるやうなのになると、自惚で、我儘で、我慢で、利己的で、何んとも仕様が無いものだ。その上大抵、多弁至極と来る。女らしい優しいところが全く無い。こんな女を女房にした男は、如何に嬶天下に甘んずる西洋人でも、一生浮ぶ瀬の無いのに歎声を発ざるを得ざる次第と相成る。画室にでも籠つて、こんな女美術家が懸命に描いてるところを見ると、更に層一層の不快を感ぜざるを得ない。(カッコ内引用者註)
  
 この直前の文節で、日本女子大卒の高等教育を受けた女が、「お針は出来ず女の道は何一つ心得て居無」いからダメ的な文章も書いているので、およそ青柳有美が“ぴんから兄弟”のようなワードとともに抱いていた彼本来の女性観が透けて見える。
 上記の文章からも、女性は謙虚で、謙譲で、我慢強く、利他的で、無口で、男に対しては優しくなければウソで、男を陰でバックアップして浮かぶ瀬へと押し上げてくれなければならず、女美術家などもってのほかだ……と、ほとんど洋画家・柏原敬弘Click!や「画見博士」こと芳川赳Click!よりも“重症”な、女性コンプレックスの持ち主だったことがうかがわれる。ほかにも、このあと女性作家や職業婦人など自立している女性には端からケチをつけ、ケシカラン的な文章を書き連ねていてかなり異常で異様に映る。
 彼は秋田県で、いちおう東日本に属する地方の出身のはずだが、江戸東京地方にやってきてこれほど地元の文化や風俗Click!、生活習慣に馴染まない(馴染めない)東北人もかえってめずらしい。同時期に下落合に住んでいた、同じ秋田出身の矢田津世子Click!などは、彼の目から見れば「とんでもない土蜘蛛女」ということになりそうだ。
 このような人物が、原日本の生活文化Click!が色濃く残る江戸東京Click!で暮らしていながら、キリスト教の神父とは無縁な中国・朝鮮半島由来の儒教倫理・道徳(特に「女修身」)をありがたく拝借し、率先して没入していくのは当然のなりいきで、東邦電力の社員(自分も社員なのだが)に向けた講演では、「女に気をつけろ」的な言質が急増していくことになる。1926年(大正15)に電気之友社から出版された『電気技工員講習録』に収録の、林泉園住宅の東邦電力社員たちへ向けた講演「電気修身」(爆!)から引用してみよう。
  
 苟(かりそめ)にも上役から言ひ付けられたことだと成れば、多少そこに無理があると思つても、他人へ迷惑の懸らぬ限り、何んでも「ハイハイ」と苦い顔一つ見せず、よろこんで之を遵奉てゆくところが、是れ人間としての美しい處で無いか。(中略) 若い男が、やり損なつて一生を棒に振つてしまふに至るのは、十中の八九まで酒と女が原因に成る。恐ろしいものは酒と女とだ。第一酒と女とは、金銭の懸る仕事で、ロハなんかで出来るものでは無いのである。殊に昨今物価騰貴の折柄、諸事倹約を旨とせねばならぬ時に、酒を飲んだり女にトボケたりして居つては、迚(と)ても生活が立つて行かぬのだ。(カッコ内引用者註)
  
 してみると、「名古屋女」も「三河女」もマジメにつき合った恋愛相手などではなく、やたらカネばかりかかる、その筋の“商売女”だったとも思えてくる不用意な発言だ。
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 どうやら酒も恋愛(女)も、自分自身が選択して楽しむべき主体的な行為であることは、どこかへ丸ごと置き忘れ去られ、「怖ろしいもの」=「酒と女」がこの世に存在するから悪いとまでいいたげな「修身」講演だ。こういう没主体的な言質を吐いているからこそ、なんでも滅私奉公で「ハイハイ」ということをきかない、「高等教育」を受けた「多弁至極」で論理的な女たちにやりこめられ、教師も神父の職も辞めざるをえなかったのではないか?

◆写真上:下落合367番地の、林泉園住宅地Click!にあった青柳有美邸跡(左手)。
◆写真中上は、1897年(明治30)からの巣鴨庚申塚時代に撮影された明治女学校キャンパス。は、関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる東邦電力林泉園住宅地の青柳有美邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる青柳有美邸。は、1909年(明治42)に出版された『女学生生理』(丸山舎出版部/)と、1913年(大正2)に出版された『日本美人論』(明治出版社/)。は、1916年(大正5)に出版された『人情論』(広文堂書店/)と、1921年(大正10)に出版された『接吻哲学』(日本性学会/)。
◆写真下は、かなり売れいきがよかったとみられる1926年(大正15)出版の『恋愛読本』(二松堂/)と、1932年(昭和7)の明治図書出版協会版の復刻『恋愛読本』()。は、下落合時代の青柳有美。下左は、「電気修身」が収録された1926年(大正15)出版の『電気工員講習録』(電気之友社)。下右は、林泉園の自宅で読書をする青柳有美。

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