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丸ごとウソだった三角寛の「サンカ」研究。 [気になる下落合]

旧三角寛邸.JPG
 今年も拙ブログをご訪問くださり、ありがとうございました。本アーティクルが、今年最後の更新となります。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。よいお年を!
  
 以前、高田(現・目白)や雑司ヶ谷、落合、長崎地域などを荒らしまわった説教強盗の記事Click!で、東京朝日新聞のサツまわり記者だった三浦守(三角寛)Click!について触れたことがある。彼は、のちに「サンカ(山窩)」の研究家・小説家として広く知られるようになるが、そのスタートラインは記者時代の警察資料や、実際のミナオシ(箕直し)あるいはミブチ(箕打ち)と称された人々への取材によって得られたものだ……とされてきた。
 ところが、この「サンカ(山窩)」という呼称は、そもそも西日本で使われていた用語であり、東日本ではおもに警察がその呼称を採用していたにすぎないことが判明している。西日本でいう「サンカ」は、東日本では上記の「ミナオシ」「ミブチ」「ミーヤ(箕屋)」などと呼ばれるのがほとんどで、例外的に「ミツクリ(箕作り)」や「テンバ(転場)」という呼称も残ってはいたが、西日本のように農村で「サンカ(山窩)」とは呼ばれていない。三浦守は、新聞記者時代から知っていた警察採用の「サンカ」という呼称を踏襲して、「サンカ」作品(三角寛)なるフィクションを次々に創作していった。
 ここでは記述がややこしいので、本来は西日本の呼称であり、三角寛だけがことさら用いた警察用語の「サンカ」を踏襲し、関東の「ミナオシ」あるいは「ミブチ」「ミーヤ」という呼称は用いないことにする。これらの呼称は、江戸期から明治末ぐらいまでにかけ、藤や竹を素材にした農器具を生産したり、その修繕のために各地を移動する職人たちに付与された蔑称であることにも留意したい。鎌や鋤、鍬などを鍛錬して供給し農村を移動する鍛冶たちを、刀鍛冶Click!に対して「野鍛冶」Click!と蔑んだのと同じ感覚だ。
 国の経済基盤だった、農業を支える重要な農機具や農器具を製造する彼らが、ことさら差別的に扱われたのは、定住せず常に移動をつづけて営業する「漂泊民」だったことから生じたと思われる。実は「漂泊」しているのではなく、地域ごとに一定のマーケットを巡回する営業サイクルがあったわけだが……。クニや藩の経済基盤であり軍備や軍事力の大きなカナメでもあった、各地を移動して川や山の砂鉄を採取し、カンナ(神奈・神流・鉋)流しClick!の技術により目白(鋼)Click!を製錬するタタラ集団が、定住者の農民からすればいかがわしい集団に見えたのと同様の視座からだろう。
 定住者から見れば、彼らは常に「よそ者」であり、その排他的な視点から通りすがりの者はなにをするかわからない連中として警戒され、蔑視されていたにちがいない。事実、全国の警察に「サンカ(山窩)」の呼称が残っているのは、近代に入ってもそのような事例があったか、あるいはすべて通りすがりの「よそ者」である「サンカ」の仕業にしておけば、村や町の秩序や平和(=ミクロコスモス)が保たれたせいもあるのだろう。
 さて、三浦守のペンネームである三角寛が書いた著作に、「サンカ」の実情・実態を記録したとされる『山窩物語』(1966年)という、一種の随筆ないしはルポルタージュがある。同書には、三角寛が東洋大学Click!へ提出した、1962年(昭和37)執筆の博士号論文「サンカ社会の研究」の概要をまとめた「山窩の社会構成」も掲載されている。
 同書には、次のような一文も掲載されている。2000年(平成12)に現代書館から出版された、「三角寛サンカ選集」の『第一巻・山窩物語』から引用してみよう。
  
 私が、彼らが山窩であることを知ったのは、それから四年後であった。この間に、私は、彼らをそれとは知らずに、東京の随所で見かけていた。今の目白の千歳橋(ママ:千登世橋)の下でも見た。江戸川(現・神田川Click!)流域のタンボの中でも見かけた。また落合の、近衛公爵邸Click!の下がわや、最近では盛り場に一変した池袋の東口(根津山Click!)などでは、何回彼らのセブリ(天幕=野営地)を見かけたかわからない。(カッコ内引用者註)
  
三角寛「山窩物語」2000.jpg 三角寛.jpg
三浦寛子「父・三角寛サンカ小説家の素顔」1998現代書館.jpg 筒井功「サンカの真実三角寛の虚構」2006.jpg
近衛邸の下1932.jpg
千登世橋.JPG
 昭和初期の落合地域やその周辺域には、彼のいう「サンカ」が数多く出没していたことになっているが、これがすべて丸ごと絵空事のウソ八百だったとしたらどうなるだろうか? バッケ(崖線)Click!の下や橋の下にいるホームレスを、「サンカ」に仕立てあげてたとしたらどうだろうか? ほんのわずかな事実(関東における「ミナオシ」「ミーヤ」の存在)の断片から、はてしのない妄想や夢想をふくらませてリアリティあふれる小説(フィクション)を書ける筆力を備えた稀代の作家……ということになるのだろうか。
 ところが、三角寛は小説家では飽きたらなくなり、学術的な名誉や権威が欲しくなったものか「サンカ」随筆を書くうちに、底の深いとんでもない仕掛けやカラクリを早くから準備しはじめている。新聞記者時代に、たまたま取材できた埼玉県の「サンカ」をもとに、とうに定住して自宅をもち別の仕事をしている元「サンカ」や、元来は「サンカ」ではないエキストラに高額なギャラを支払って依頼し、テント(天幕)や箕などの農器具、それらしいコスチューム(衣裳)、ウメガイ(「サンカ」の両刃の家宝刀=もちろんウソ)、風呂用のビニールないしはゴムシート、女性用の竹簪(かんざし=もちろんウソ)、各種の生活小道具などを三角寛がすべて制作・用意してクルマで運んで支給し、おもに埼玉県の河川でセブリ(「サンカ」の野営地)をデッチ上げて「貴重」な写真類を撮影したことが明らかになっている。エキストラには、三角寛が経営していた映画館「人生坐」の社員も含まれていた。
 これらの写真を仔細に検証すると、丹波や九州、広島、埼玉、山梨、千葉など「全国」規模で撮影されたセブリに、同一人物や同一のテント(天幕)が写っていたり、「出演者」の子どもたちがまったく別の地方とされるセブリに出現したりと、すぐにも見透かされてしまうような幼稚なトリックを用いていた。また、「サンカ」だけが使っていた古代からつづく「サンカ文字」や「隠語」、「サンカ」の社会で築き上げられた全国的な組織とヒエラルキー、あるいは戦前の「全国箕組合」などもすべて荒唐無稽な三角寛の創作であることが判明している。それは今日、三角寛(三浦守)の遺族をはじめ、「サンカ」のセブリへモデルとして出演した人々、あるいは知人たちの証言などによってもほぼ裏づけられた。
 傑作なのは、積み重ねてきた作り話やウソがしだいに複雑になり、三角寛自身も混乱しはじめていたものか、最後には虚構のほころびが随所で見られるようになる。三角寛が経営する池袋の映画館「人生坐」がオープンした1948年(昭和23)2月17日~18日、開館イベントが盛大に行われ同館の中心にいたはずの三角寛が、同日時に丹波福知山(現・京都府福知山市)の山中、下六人部の由良川に設営されたセブリに数日滞在して、「サンカ」の「貴重」な写真を撮影していた(とされている)ことも判明している。これが虚構でないとすれば三角寛は、どうやら「どこでもドア」をもっていたようなのだ。三角寛が撮影した写真は、関東から以西のほぼ全国的にわたっているとされてきたが、現在ではそのほとんどのロケ地が、埼玉県を流れる決められた河川の流域と特定されている。
 また、東洋大学へ提出した博士論文「サンカ社会の研究」(1962年)では、論文らしく装うためにどこにも存在しない「サンカ」の全国的な各種統計資料や、より大規模なエセ資料を「引用」しながら「論旨」を展開していくことになる。それは、戦前から執筆してきた随筆やルポルタージュのウソとはケタちがいの内容だった。当時の様子を、2006年(平成18)に文藝春秋から出版された筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』から引用してみよう。
サンカ文字.jpg
祝儀袋.jpg
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 三角寛の虚言は、これまで述べてきたように、戦前の著作にも、すでに見えている。(中略) しかし、サンカ論についていえば、のちの『研究』(博士論文のこと)や『資料集』に述べられているような、けたはずれの虚構は、戦前のものにはあまりうかがえない。/そのころの嘘は荒唐無稽、猟奇的ではあっても、たぶんに観念的、抽象的で全体におとなしい。『研究』にあるような、具体的な地名、人名を次々と並べ、精密すぎる数字を列挙するといった、大がかりな仕掛けは、まだ使っていないのである。それは論文執筆に際して初めて採用した壮大なからくりであった。(カッコ内引用者註)
  
 文中の『資料集』は、博士論文執筆のために「参照」した資料を集大成して出版した、いわば「原典」資料のことだ。論文を審査するために、審査委員長の斎藤清衛をはじめ、東洋大学の学長・佐久間鼎、助教授の恩田彰、校友会長の尾張真之介らが、埼玉県川越市の越辺川にセブリ(野営)する「サンカ」家族や、同県東松山市の都幾川のセブリを訪問して、論文の検証(ウラ取り=ファクトチェック)をしたとされている。
 このとき、天幕や箕をはじめセブリの大道具小道具一式は、三角寛がすべて用意しクルマに積んで現地へ運んだものであり、雇用された「サンカ」役の出演者たちの証言も残っているので、もはや多言を要しないだろう。東洋大学の論文審査会は、三角寛の虚言癖と芝居にまんまと騙されたことになる。いや、騙されたのは学術分野だけでなく、名だたる文学者たちも「サンカ」について同論文を参考にし、ありもしない「サンカ文字」や「隠語」、丹波を中心とした「全国組織」について言及した作品を残している。
 ちょうど、三角寛の虚構が次々とあばかれていたころ、旧石器Click!の捏造事件が起きたのは記憶に新しい。「God Hand」と呼ばれた考古学者・藤村新一は、日本の旧石器時代Click!が50万年前後もさかのぼる地層から旧石器を次々に「発見」したが、ほぼすべてがあらかじめ自身で埋めて「発掘」する、あるいは「発掘」させるマッチポンプ式の捏造だったことが、毎日新聞記者の張りこみ取材で明らかになった事件だ。これも三角寛の「サンカ」と同様に、“学会での名誉欲”(+金銭)がからんだ出来事だった。
 わたしと同時代の偽書・捏造事件には、有名な『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』と、地味だが教科書にも採用された『江戸しぐさ』があった。前者は、とある「旧家」和田家の天井から、屋根の太い梁に吊るされた古文書入りの行李が天井板を破って落下し、その中から記紀と対峙する江戸期に書かれた超古代史の古文書『東日流外三郡誌』の、明治以降とみられる写本が「発見」されたというふれこみだった。
 それぞれ時代の異なる古文書なのに、なぜか筆跡がすべて同じで書かれた「墨」は筆ペンのもの、紙の繊維は戦後の障子紙であり、欠落した文書が指摘されて問題化すると、次々に後追いで文書が「発見」され、それらもすべて同一の筆跡だった……という、ふり返ればまことにお粗末な偽史・偽書事件だ。最後には、和田家の家屋は古い建築ではなく、天井には太い梁など存在しないことまでが明らかになっている。
 それでも、当初は歴史家や自治体が『東日流外三郡誌』に飛びつき、多種多様な論文やエッセイ、記事などを通じて「著者」である和田喜八郎は有名になり、同古文書の引用料や地域イベントへの流用などで「著者」には莫大な金銭が流れたとされている。同書は、規模からしても戦後最大の偽書事件だが、「なんでこんな作りものにだまされるんだろ」という、和田喜八郎の隣家に住む肉親(従妹)の言葉が印象的だった。
 後者の『江戸しぐさ』に関しては、明治期に「江戸っ子」のジェノサイド(大量虐殺)が行なわれたため(ってこたぁ100万人以上が虐殺されたんだね)、江戸の習慣や風俗・文化を受けつぐ人間が途絶え、記憶による口承でしかそれらをうかがい知ることができない……というふれこみで、戦前の「修身」まがいのさまざまな「道徳」や、まるでヨーロッパ諸国の“マナー”のような「規範」を紹介したものだが、あまりにも荒唐無稽なウソ八百かつお話んならないバカバカしさなので、これ以上は触れない。
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斉藤光政「戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』2019.jpg 原田実「偽書が揺るがせた日本史」2020.jpg
 三角寛の遺族にすれば、「なんでこんな荒唐無稽な話にだまされるの?」と不思議だったにちがいない。むしろ博士論文などに手をださず、人生最後の瞬間「み~んなぜんぶ、ウソピョ~ン!」と舌をだして逝けば、一貫して高度なリアリズムを追求した特異な「サンカ」小説を書く、日本では稀代なファンタジー作家の地位は揺るがなかったはずなのに……。

◆写真上:料亭「寛」の時代に撮影した高田町時代は雑司ヶ谷金山368番地で、1932年(昭和7)以降は豊島区雑司ヶ谷町1丁目368番地になる旧・三角寛邸。
◆写真中上は、2000年(平成12)出版の三角寛サンカ選集『第一巻・山窩物語』(現代書館/)と三角寛()。中左は、娘の三浦寛子が1998年(平成10)に書いた「奇々怪々」な『父・三角寛-サンカ小説家の素顔』(現代書館)。中右は、「サンカ」研究の虚構を全的に検証した筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(文藝春秋)。は、昭和初期に「サンカ」のセブリがあったとされる下落合は近衛邸の崖下(1932年撮影)と千登世橋の下。
◆写真中下は、三角寛が創作した「サンカ文字」。は、その「サンカ文字」の入った祝儀袋を手にした「サンカ」役を演じる出演者のひとり。は、「命よりも大切」とされるウメガイ(両刃の短刀)をかざすセブリにいた「サンカ」の「武蔵太刀平」(実は日当でモデル出演を依頼された久保田辰三郎)。丸ごとすべてが創作・虚構で、ウメガイは随筆に登場する「椎名町の鍛冶屋」で三角寛が注文した品なのかもしれない。
◆写真下は、埼玉県東松山市の都幾川にいた「サンカ」のセブリを視察する東洋大学の調査団。立っている人物の左から博士論文提出者の三浦守(三角寛)、東洋大学学長・佐久間鼎、同大学助教授・恩田彰、同大学交友会長・尾張真之介の面々。写っている天幕(テント)や箕、「サンカ」衣裳などの大小道具は、すべて三角寛があらかじめ舞台のセブリへ運んだもので、日当をもらって出演している「サンカ」の演者は、左端が大島太郎で左から3番目の人物が久保田辰三郎ということまで判明している。は、「サンカの娘」が頭に指す青竹の簪(かんざし)について解説する三角寛と、説明を聞く東洋大学長の佐久間鼎。もちろん、「サンカの娘」が青竹の簪を指すのもウソで、簪は三角寛が手づくりしたもの。「サンカの娘」役を演じているのは、池袋の映画館「人生坐」の社員だった久保田初子。は、集英社から刊行された斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』(2019年/)と、山川出版社から刊行された原田実『偽書が揺るがせた日本史』(2020年/)。
おまけ
 農器具である箕とは異なるが、農家の台所などでときどき見かける藤の蔓と竹で編んだ柄付きのザル。蕎麦や野菜類などを茹でるときに使うのだろうが、これも関東でいうミツクリ(箕作り)・ミナオシ(箕直し)の仕事だったのだろうか? 世田谷区喜多見にて。
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昔の下落合によく似る成城のハケ沿い。 [気になる下落合]

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 世田谷区の面積は58.06km2で、とんでもなく広い。東京都の23区では、大田区(60.66km2)に次ぐ第2位の広さだ。同区を横断している国分寺崖線は、落合地域を横断する目白崖線Click!の風情によく似ており、崖地のことを前者はハケClick!で後者はバッケClick!と呼称しているのも近似していて、これまで何度かご紹介してきている。
 でも、同じ崖線と呼ばれていても、その規模はまったく異なる。通称としての目白崖線が、音羽の谷間の西側、江戸期以前は目白山Click!(のち椿山あるいは関口台)と呼ばれていた位置から、下落合の外れにある目白学園Click!の丘までおよそ5kmつづく崖線なのに対し、国分寺崖線は立川市から大田区の多摩川べりまで約30kmもつづく崖地だ。目白崖線は、国分寺崖線のわずか6分の1の規模にすぎない。目白崖線は、文京区に豊島区、新宿区の3区にまたがる崖地だが、国分寺崖線は立川市にはじまり国分寺市、小金井市、三鷹市、調布市、世田谷区、そして大田区までエンエンとつづいている。
 目白崖線は、神田川(江戸期以前は平川Click!)および妙正寺川(江戸期以前は井草流あるいは北川Click!)の段丘で、下落合(現・中井2丁目)の字名・大上Click!がピークの標高37.5mだが、国分寺崖線の多くは野川沿いに形成された段丘で、区部を外れると標高70mを超える丘もめずらしくない。国分寺崖線の国分寺Click!小金井Click!については、昔日の下落合と近似する風情としてこれまで何度もご紹介してきた。ときに親父のアルバムClick!や、わたしが高校時代に撮影した「ハケの道」の写真類、あるいは織田一磨Click!のスケッチ、昭和初期の写真類Click!なども含め、落合地域以外の記事としては多めなほうだ。
 今回は、崖線の近似で親しみを感じるが、これまでほとんど訪れなかった世田谷区を横断するハケ=国分寺崖線をご紹介したい。だが、冒頭にも書いたように世田谷区は面積が広いので、いつものように目白崖線沿いを散策する気分で出かけたりすると、思いのほか疲労することになる。世田谷区が58.06km2の広さに対して、新宿区は面積18.23km2とわずか31.1%の広さにすぎない。目白崖線の通う文京区(11.29km2)および豊島区(13.01km2)の3区を合わせても、世田谷区の広さには到底およばない。
 この感覚をしっかり身につけてから散策に出かけないと、期せずしてひどい目に遭うことになる。スマホの歩数計でいえば、目白崖線沿いの散策は「きょうは、けっこう歩いたねえ」といっても1万~1万5千歩ほどだが、世田谷の崖線沿いでうっかり不用意な散策コースを設定すると、2万~3万歩は普通であたりまえなのだ。閑静な住宅街の中にもかかわらず、クルマがひっきりなしに往来しているのは、繁華街へちょっとした買い物や食事に出かけるのも、徒歩でいくのがあまり現実的ではないからなのだろう。
 また、崖線沿いの住宅街が似ているばかりでなく、もうひとつ世田谷区にこのごろ親しみをおぼえるのは区長・保坂展人の存在だ。わたしは大学を卒業してすぐのころ、仕事をしながらミニコミを制作・発行していたのだが、当時は代々木にあった「青生舎」を主宰する彼のもとへ話をうかがいに出かけたことがある。それが縁で拙誌に寄稿していただき、パートナーさんからは何度か郵送費(切手)のカンパをいただいた憶えがある。そのせいか、いままであまり縁のなかった世田谷区に、なんとなく親しみを感じるようになった。
 さて、今回散策したのは、世田谷区成城の国分寺崖線沿いだ。この崖線沿いも、目白・下落合地域と風情がとてもよく似ている。目白崖線沿いの東部は、江戸の後期=大江戸(おえど)Click!時代から大名や旗本の屋敷、それに加え町人たちの街がすでに形成されており、明治期になると崖線の西部=落合地域が別荘地として開発されているが、世田谷区の国分寺崖線沿いも明治期になると別荘地として注目されるようになる。そのような環境の中で、成城(当時は砧村喜多見台)は大正末になると、東大泉Click!国立Click!と同様に学園都市としての開発がスタートしている。ちなみに、成城の丘上は標高50m弱となっている。
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成城町19450119.jpg
世田谷国分寺崖線散策マップ.jpg 世田谷の近代建築発見ガイド.jpg
 大正末、新宿駅を起点に小田急線の敷設事業が具体化してくると、牛込区原町2丁目87番地(現・新宿区)に開校していた成城学園では、関東大震災Click!の教訓から郊外への移転計画が持ちあがった。そしていくつかの候補地をしぼり、1925年(大正14)に現在地の砧村喜多見台へと移転し、小田急電鉄と協議したうえで近くに成城学園前駅を設置した。同学園の後援会地所部が、学園都市としての住宅地を開発するため、1926年(大正15)に2万坪の土地を取得して区画整理をはじめている。また、1927年(昭和2)には水道利用組合を結成し、規模の大きめな井戸を掘削して地下水を各家庭に配給するのは目白文化村Click!と同様だが、ほどなく荒玉水道Click!からも給水を受けている。
 つづいて、1931年(昭和6)には電話線が引かれ、翌1932年(昭和7)にはガスの供給もはじまった。この時点で、成城町は学園都市というよりも、新宿へ小田急線1本で出られる郊外住宅地として注目されるようになり、東京市街地からの転入者が増えていった。戦後は、特にオシャレで閑静な住宅街として注目され、いくつかのドラマや映画のロケ地にも採用されて、人気のある住宅街として今日にいたっている。
 開発の様子を、2012年(平成24)に(財)世田谷トラストまちづくりから発行された『世田谷の近代建築 発見ガイド―世田谷の近代建築調査より―』から引用してみよう。
  
 こうして大正14年(1925)、まず成城第二中学校が移転・開校し、第1期土地分譲後40戸程の家が立ち(ママ)並びました。また、昭和4年(1929)に朝日住宅展覧会が開かれて16棟のモデルハウスが分譲販売されると、以降この朝日住宅の洋風スタイルが成城の1つの特色となりました。その後も住宅地は駅の南北に広がり、貸地も含め37万坪もの大住宅地ができあがりました。/残念ながら朝日住宅については1棟も現存しませんが、今でも比較的多くの近代洋風住宅が残り、また大谷石の外構とともにみどり豊かな屋敷環境が残るのは、分譲当初に交わされた申し合わせが、今も成城に暮らす人たちの間で『成城憲章』として引き継がれているからなのです。
  
 この一文に登場している、成城の「朝日住宅」のモデルハウス×16棟Click!については、こちらでも4回の「次世代型住宅」シリーズClick!ですでにご紹介している。下落合には、より古い明治期や大正期に建てられた西洋館が多かったが、成城はさらにそこから進化した今日の住宅の意匠Click!へと直結する、昭和初期の洋風住宅が建ち並んでいた様子がうかがえる。
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 成城の街並みを歩いていて感じるのは、1970~1980年代にかけて歩いていたら、まるで近代建築(特に昭和初期から戦前にかけて)の住宅展示場のようだったろうと思えることだ。現在でも、当時のいくつかのお宅があちこちに残っていて、歩いていると街角で突然出あうことができる。国の有形文化財に登録された建物も多いが、中にはすでに自治体が保存・管理し、ハケ沿いの緑地(成城みつ池緑地)に接して建つ旧・山田邸(1937年築)のように、いつでも内部を一般公開している住宅もある。
 ハケ沿いに、緑の森が集中しているのも目白崖線の風情と同じだが、成城とその周辺の緑地(自治体が管理している)は、1年のうち決められた日時にしか公開されず、ふだんは立入禁止のところが多いので散策するには注意が必要だ。目白崖線沿いの椿山荘Click!江戸川公園Click!関口芭蕉庵Click!肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)Click!学習院キャンパスClick!おとめ山公園Click!など、昼間ならたいがい散策できるバッケ(崖地)の森や緑地とは異なり、おそらく植生などを保護するために立ち入りを制限しているのだろう。野鳥が多く、タヌキが出没するのも目白崖線とよく似ている。もっとも、最近のニュースで改めて紹介されたように、タヌキは新宿駅にも棲みついているのだが……。
 成城の街並みを歩いていると、ときに1970年代半ばの下落合を歩いているような感触をおぼえる。初めて歩く街なのに、どこか懐かしさと既視感おぼえるのは、おそらく住宅地の風情や雰囲気が似ているせいなのだろう。落合地域は、二度にわたる山手空襲Click!で大半が焼け野原になったが、成城はほとんど戦災を受けずに敗戦を迎えている。
 ただし、落合地域とのちがいは、主要な道筋が江戸期や明治期とあまり変わらないところへ、住宅地を開発した落合町に対し(大正末から昭和期に耕地整理が行われた西落合地域Click!は除く)、成城はあらかじめ計画的な道路を敷設したうえでの開発なので、比較的整った道筋でわかりやすく歩きやすいことだ。現代の落合と成城が大きく異なるのは、成城はいまだ四角いビル状の低層マンションの数が少ない点だろうか。
 また、成城町の開発で古墳がどれほどつぶされてしまったのかは不明だが、成城から喜多見、狛江にかけての国分寺崖線沿いは“古墳の巣”のような史蹟だらけで、このあたりも目白崖線沿いの史的環境とよく似ている。目白崖線(特に東部)は、江戸期からの開発なので破壊された古墳がどれほどの数にのぼるのか不明だが、「百八塚」Click!の伝承がいまに残るように、戦前の落合地域だけ見てもバッケ(崖地)沿いには数多くの古墳Click!が記録されている。そんな史的相似も、国分寺崖線に親しみをおぼえる要因なのかもしれない。もちろん、野川沿いも旧石器時代Click!から人が間断なく住みつづけてきた、遺跡だらけの土地がらだ。
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 成城のハケ下の道から、カワセミが飛ぶ野川や対岸の古墳を観察し、もう一度崖線の丘上に出ようと直登できるお茶屋坂を上りはじめたのだが、目白崖線のバッケ坂で馴れているわたしの足でも、国分寺崖線の坂はかなりきつい。のぼれどのぼれど、丘上にたどり着かないのだ。もっとも3年間のCOVID-19禍で、身体がなまっているせいもあるのだが……。

◆写真上:見なれている目白崖線よりも、かなり見晴らしの視点が高い国分寺崖線。
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろ撮影の成城町。は、1945年(昭和20)1月19日にF13Click!によって撮影された成城町。は、2019年(平成31)に(財)世田谷トラストまちづくり発行の『世田谷 国分寺崖線散策マップ』()と、2012年(平成24)に同財団発行の『世田谷の近代建築 発見ガイド―世田谷の近代建築調査より―』()。
◆写真中下は、成城の街中に残る近代建築のN邸(1927年築)。は、保存・公開されている旧・山田邸(1937年築)。は、国分寺崖線の典型的な雑木林。
◆写真下からへ、国分寺崖線のハケ(崖地)に通う散歩道、武蔵野らしい雑木林、野川沿いから国分寺崖線を望む、のぼれどのぼれど丘上に出ず息ぎれしたお茶屋坂。

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松下春雄の連作「赤い屋根」をめぐって。 [気になる下落合]

「赤い屋根の見える風景Ⅱ」1926頃.jpg
 松下春雄Click!の作品に、「赤い屋根」シリーズとでもいうべき作品がいくつか存在している。そのうちの1点は、西坂の丘上に建っていた徳川義恕邸(旧邸)Click!の母家を、1926年(大正15)の初秋に南の庭園側から北を向いて描いた『赤い屋根の家』だ。松下春雄は、西坂の徳川邸を連作で描いており、ほかにも1926年(大正15)5月ごろに同邸のバラ園を描いた『下落合徳川男爵別邸』Click!、同時期に描かれたとみられる『徳川別邸内』と『下落合男爵別邸』Click!の3点が、いまのところ確認できている。
 西坂・徳川邸(旧邸)が「赤い屋根」の色をしていたため、従来はほかの「赤い屋根」シリーズも同邸を離れた位置から描いたものだと想定してきた。だが、連作『赤い屋根の見える風景』の画面をよく観察すると、同時期の西坂の丘上にしてはあまりにさびしく鬱蒼としていて、周辺に住宅街がなさすぎるのだ。大正末であれば、もう少し家々の屋根や門などが見えてもおかしくないはずだが、周囲には森や畑地とみられるような地面が拡がるだけで、大正末に見られる西坂の丘上のような宅地化の風情が感じられない。松下春雄の『赤い屋根の見える風景』には、『同Ⅰ』と『同Ⅱ』の2種類の画面が確認できる。今回は、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』(冒頭写真)を中心に、制作場所を推定してみたい。
 ちなみに、この連作は1926年(大正15)ごろの作品とする図録と、1929年(昭和4)ごろの作品とする図録の2種類が存在している。前者が1988年(昭和63)に藝林から出版された画集『幻の画家 松下春雄』であり、後者が1989年(平成元)に名古屋画廊から刊行された『松下春雄作品集』(「松下春雄展」図録)だ。いずれの時期にせよ、松下春雄は下落合で暮らしていた時代にあたるが、1926年(大正15)なら西坂・徳川邸の北側に位置する、大澤海蔵Click!らと共同生活を送っていたとされる下落合1445番地・鎌田方Click!の下宿で、1929年(昭和4)だとすれば第一文化村Click!の北側にあたる、少し前まで甲斐仁代・中出三也Click!アトリエClick!があった、下落合1385番地と同地番の借家Click!に、結婚した淑子夫人や子どもとともに住んでいた。
 いずれにしても、連作『赤い屋根の見える風景』は下落合の風景を描いていると思われるが、わたしは1926年(大正15)ごろの制作ではないかと思う。なぜなら、松下春雄がタイトルに「赤い屋根」を用いるのは、1926年(大正15)に西坂・徳川邸を描いた『赤い屋根の家』も同様であり、この時期には下落合800番地に住んでいた同じ帝展の有岡一郎Click!と連れだって、近所の風景を描いてまわっているからだ。有岡一郎の『初秋郊外』Click!(1926年)も西坂・徳川邸(旧邸)をモチーフに描いた作品であり、ふたりの画家は西坂・同邸の広い庭でイーゼルを並べて描いていた可能性が高いのだ。
 また、松下春雄が結婚し第一文化村のすぐ北側にあたる下落合1385番地へ転居したあとは、その周辺に展開する風景、すなわち目白文化村(松下は「下落合文化村」Click!と呼称している)の周辺を描く作品が多くなり、西坂・徳川邸とその周辺での制作はあまり見られなくなることからも、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』は下落合1445番地で暮らしていた時代、すなわち1925~1926年(大正14~15)ごろの制作ではないかと思えるのだ。
 さて、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』だが、西坂上の徳川義恕邸(旧邸)にしては、あまりに周囲がさびしすぎる風情なのは先にも書いたが、大正末であれば西坂通りClick!(「八島さんの前通り」Click!)筋にはもう少し家々が見えてもいいし、また手前の雑木林や畑地(?)にしてももう少し住宅が並んでいてもいい時期だ。画面を観察すると、明らかに光線が逆光気味なのが観てとれるので、松下春雄の正面またはやや右手が南側だと想定できるだろう。「赤い屋根」の家を仔細に観察すると、画家は建物が見える北側の少し高めな位置にイーゼルをすえているのがわかる。
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 モノクロ画面でハッキリしないのが残念だが、同作が1926年(大正15)ごろの作品だとすると、描かれた大きめな西洋館が西坂・徳川邸でないとすれば、下落合のどこの風景を描いたものだろうか? ここで、ときに有岡一郎と連れだって「下落合風景」を描いていた、先のエピソードが想起される。有岡一郎の作品には、西坂・徳川邸を描いた『初秋郊外』とともに、六天坂Click!および見晴坂の丘上に建つギル邸Click!を描いた、『或る外人の家』Click!という作品がある。いずれも1926年(大正15)に発表されている作品だが、有岡一郎の「下落合風景」は残念ながらこの2点のみしか判明していない。
 しかし、有岡が『或る外人の家』を描いた際に、『初秋郊外』と同様に松下春雄もいっしょであれば、『赤い屋根が見える風景Ⅱ』の西洋館はギル邸の可能性が高いことになる。有岡一郎は、ギル邸を六天坂側の西南西から描いているのに対し、松下春雄はギル邸を北側のやや離れた位置から描いていることになる。すなわち、描かれている大きめな西洋館はギル邸の裏側、つまり北側の日陰気味になっている屋根および壁面ではないだろうか。カラーで残る有岡の『或る外人の家』では、ギル邸は「赤い屋根」をしている。
 この角度から見ると、ギル邸の東側、つまり画面の左手には見晴坂筋の道が通い、ギル邸の西側、すなわち草木に隠れた画面の右端には六天坂筋の道が通っていることになる。そして、ギル邸の玄関のあるファサードは六天坂に面しているので、建物の右手にあるのだろう。また、両坂が通う丘上の道路沿いに、大正末には住宅がほとんど建っていない点、あるいはギル邸の北側一帯も広い草原か空き地の状態であり、『赤い屋根が見える風景Ⅱ』の手前に描かれた草木だらけ(一部は畑地?)の環境ともよく一致している。
 松下春雄がイーゼルをすえている位置は、北にいくにしたがってやや標高が高めになる、当時は「翠ヶ丘」と呼ばれていた一帯であり、やがて改正道路(山手通り)の工事計画Click!が具体化すると、赤土がむき出しのままの斜面や空き地が増えていったため、「赤土山」と呼ばれるようになる一帯の、すぐ東側に拡がる風景ではないだろうか。また、松下春雄がイーゼルを立てている地点は、1967年(昭和42)に十三間通り(新目白通り)Click!の工事が進捗するとともに深く掘削されてしまい、現在は消滅してしまった丘上の地面ではないかとみられる。以前、「翠ヶ丘」を掘削して十三間通りの工事が進む様子を、上空から警視庁が撮影した写真Click!とともにご紹介していた。
ギル邸1936.jpg
ギル邸1930年代後半.jpg
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 『赤い屋根の見える風景Ⅱ』がギル邸を描いたものであれば、ここでも1926年(大正15)ごろ松下春雄は、同時期に「下落合風景」シリーズClick!を描いていた佐伯祐三Click!と、どこかですれ違っているClick!可能性がありそうだ。佐伯は、ギル邸の西側に通う見晴坂筋の「くの字」にカーブする道端で、やはり南東を向いて逆光気味に下落合の旧家の1軒である宇田川家をモチーフに、「下落合風景」の1作『黒い家』Click!を制作している。有岡一郎がイーゼルを立てたポイントからは80mほど、松下春雄が仕事をしていた描画ポイントからはおよそ90mほどしか離れていない地点で、佐伯はキャンバスに向かっていたことになる。もっとも、松下と有岡は帝展画家であり、佐伯は二科なので交流はないのだろうが、お互い画道具を抱えながら道でいきあうと目礼ぐらいはしていたかもしれない。
 さて、松下春雄のもう1作『赤い屋根の見える風景Ⅰ』のほうも観てみよう。こちらの画面は、どこに「赤い屋根」の建物が描かれているのか、モノクロの画面ではハッキリしない。画面左上に描かれた空に向けてのびる樹木の背後に、一部が光っている屋根らしいフォルムが見えるし、その下に見えている斜面とみられる場所にも、住宅らしいかたちが描かれているので、これが「赤い屋根」の住宅なのかもしれない。
 当時の下落合では、赤あるいはオレンジの西洋瓦を用いた西洋館は、今西中通Click!が描く『落合風景』Click!ほどではないにせよ、それほどめずらしい光景ではなかったはずだ。あるいは、画面右側に近接して描かれた、下見板張りの西洋館の一部とみられる家が「赤い屋根」なのかもしれない。いずれにしても、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』のように住宅の位置や形状が不明で、カラーの画面を観てみなければわからない。
 また、この画面も樹木が鬱蒼とした中にポツンと見える、「赤い屋根」の西洋館をモチーフにしているとみられるので、このような風情は、関東大震災Click!後に住宅が急速に建てこみつつあった、目白駅寄りの下落合東部ではなく、西坂・徳川邸よりもさらに西側、下落合の中部または西部の情景ではないかと思われる。もし、左上の空と接した位置=丘上に「赤い屋根」の家が描かれているとすれば、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』と同様にギル邸をさらに遠方から眺めた風景のようにも思える。
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「赤い屋根の見える風景Ⅰ」拡大.jpg
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 松下春雄の連作『赤い屋根の見える風景Ⅰ』と『同Ⅱ』は、両作とも個人蔵の作品であり、展覧会などでも観られる機会がないが、画面をカラーで観察できれば建物の様子や地形がより正確に把握でき、下落合のどこを描いたものかがわかる可能性の高い作品だ。

◆写真上:1926年(大正15)ごろに制作された、松下春雄『赤い屋根の見える風景Ⅱ』。
◆写真中上は、同作に描かれた西洋館の拡大。は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみるギル邸と想定の描画ポイント。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみるギル邸とその周辺の様子。
◆写真中下は、山手通りの工事計画で赤土がむき出しになった1936年(昭和11)の空中写真にみる津軽義孝邸Click!(旧・ギル邸)とその周辺。は、1930年代後半の空中写真にみる津軽邸とその周辺。は、描画ポイントにあたる山手通りと新目白通りの交差点あたりの現状。住宅の擁壁でも明らかなように、ふたつの道路はかなり地面を掘削して敷設されているので、松下春雄の描画ポイントは上空の1点ということになる。
◆写真下は、1926年(大正)ごろに制作された松下春雄『赤い屋根の見える風景Ⅰ』とその拡大。モノクロの画面なので、「赤い屋根」の住宅がどれなのかがわからない。は、同時期である1926年(大正16)制作のギル邸を描いた有岡一郎『或る外人の家』。

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娘の縁談を勧める母親を妻にした男の話。 [気になる下落合]

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 昔から「一人前(いちにんまえ)」、またはおもに江戸期の大工や鍛冶、木工、金工などの職人たちがつかっていた道具類(数える単位に「丁」を用いる)を、ようやく使いこなせるようになった弟子をさす言葉でいうなら「一丁前(いっちょまえ)」になるには、独立・自立(暖簾分け)や所帯をもつ(結婚して一家をかまえる)のが基準となっていたように思う。
 同じような言葉に、「オトナ」になるというのもあった。「もうオトナなんだから」とか、「大のオトナがなにやってんだ」とか、「オトナのくせに」とか、「オトナになりきれないガキみたいなことすんな」とか、「いつまでもボクClick!じゃないぞ、もうオトナなんだから」とか、たいがいは社会的にはあまり褒められない行為や出来事について指摘する際につかわれていた。この場合の「オトナ」も「一人前」と同様に、成人をすぎて経済基盤が独立した人間に対してつかわれた言葉なのだろう。
 さらに、東京のありがちな慣習をたどってみると、おせっかいで世話好きな親戚(小津安二郎Click!の作品に登場する、杉村春子Click!のような「鎌倉のオバサン」Click!的な存在)や近所の奥さん、近しい友人・知人から縁談=見合い話を持ちこまれるようになれば、一家をかまえるまでに成長した「一人前」だと、周囲から認知されているという見方もあった。
 ただし、土地柄のせいかあまりに気が早い人もいて、わたしが大学2年生のときに縁談(見合い話)をもってきた近所の年輩の奥さんは、さすがにせっかちすぎてそそっかしく家の笑い話になった。でも、戦前なら20歳すぎの独身男がいれば、おそらくあたりまえの行為であり出来事だったのだろう。こういうおせっかいで世話好きな親戚や近所の奥さん(仲人好き)が、昔はひとりやふたりは近くにいたものだ。
 わたしが「一人前」になったと感じたのは、やはり自分で稼げるようになり、家の中のマネジメントをすべて自律してこなせるようになってからだ。学生時代の半ばから親元を離れ、あえて安いアパートを借りて「独立」してはいたが、生活費や学費は多種多様なアルバイトで賄えていたものの、やはり陰に陽に親の庇護下にあったのはまちがいない。いくら親元を物理的に離れても、物質面ではともかく精神面では、やはり実家とは伸縮自在のゴムひものような繫がり(というか束縛)を感じていた。
 そういえば、子どものころに「オトナ」「一人前」に一歩近づいたなぁ……と実感した瞬間があったのを憶えている。実際にはまだまだ子どもで幼く、いまから思えば恥ずかしい感覚なのだけれど、たとえば学校でラジオ体操の「第一」ではなく「第二」のメロディで体操をするようになったときとか、初めてコーヒーを飲むのが許されたときとか、月夜はけっこう明るいと感じたとき(つまり深夜まで起きていても親に叱られなくなったとき)とか、タクシーに初めてひとりで乗ったときとか、友だちの家にひとりで泊まったり友だちと遠くまで旅行をしたりとか、初めて酒を飲んだりタバコを吸ったときとか……数えてみればいろいろな瞬間があったように思う。
 見方を変えれば、自分で責任がとれる範囲を少しずつ拡げていくことが、「オトナ」あるいは「一人前」に一歩ずつ近づいていくような感覚だったのかもしれない。逆の視点で見れば、「オトナ」や「一人前」になったはずの自分に足りないものを見つけ、次々とそれ試してみたい、チャレンジしてみたい、経験してみたいという欲求を満たしていくのが「オトナ」になるための過渡的な期間だったのではないかともいえそうだ。その欲求が満たされ、ほぼ飽和状態になったとき、自分は「オトナ」になった「一人前」になったと、思いこむことができたような気がするのだ、
 下落合1639番地の第二文化村Click!にあった邸で暮らし、わずか33歳で結核により早逝してしまった昭和初期の作家・池谷信三郎Click!の作品に、面白い短編小説『縁(えん・えにし)』がある。結婚して一家をかまえること=家庭をもつことが「一人前」であり、「オトナ」になった自分の足りない側面を埋めることだと考えられていた、また社会的にも周囲からそのように見られていた、そんな時代の社会状況を面白おかしく描いた作品だ。
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 主人公の木内良三は、坂道の多い落合地域らしい土地の借家に住んでいる。1929年(昭和4)に平凡社から出版された、『新進傑作小説全集・第二巻/池谷信三郎』から引用してみよう。ちなみに、短編『縁』の脱稿は同年1月10日となっている。
  
 良三は家へ帰る郊外の坂路を歩いて行つた。暗い細い坂路に沿つた黒塀の中から、木槿の匂ひが夜の空気にとけてゐた。微醺を帯びた頭に風が心地よく吹いて行つた。
  
 木内良三が勤める会社は、今年で創立20周年を迎える中堅の「アルミニユーム工場」だった。彼は創業時からの社員であり、勤続20年の表彰で賞与金をもらったばかりだった。社内での地位も若い大卒には抜かれたが、専門学校卒の最高位である課長のポストは目前となり、給与もあがって多少なりとも貯金もできた。でも、若いころから仕事一筋にすごしてきたせいで、彼は45歳になってもいまだ独身だった。
 せっかく少なからぬ賞与はもらえても、それをともに喜んでくれる妻や家庭が彼にはなかった。「人通りの途絶えた郊外の坂路を歩いて行くうちに、又何んとも云へぬ淋しさがこみ上げてくる」ような生活で、自分に足りないのは「妻」であり「家庭」だと痛感していた。若いころは、「一人前」になるのは一家をかまえることと縁談を持ちこむ人もいたが、いまはそれも絶えて久しい。また、彼には東京に身内がひとりもいなかった。
 そこで、木内良三は一念発起し、結婚して妻を迎え家庭が持てるように、近所のより大きな貸家を借りることにした。家賃は高額で50円もしたが、玄関先には立派な門がまえのある家で、1階が8畳・6畳に4畳半、2階が6畳という間取りで瀟洒な庭もついていた。いまでいうと、3LDKの庭つき一戸建て住宅といったところだろうか。当時は、持ち家ではなく借家があたりまえの時代なので、現代に比べれば賃料も相対的に安く、物価指数換算でいうと当時の家賃50円/月は、いまの30,000円ほどに相当する。
 彼は高砂社、すなわち今日の結婚相談所または仲人会のような組織を訪ねようかとも思うが、「良縁御世話致します。年齢、職業、性質、いろいろ無数に候補者がございます」と、まるで呉服店(デパート)Click!の大売出しのようなコピーを見てやめることにし、新聞に求婚広告を載せることにした。いまではまったく見かけないが、新聞には求人広告とともに「求ム花嫁・花婿」といった求婚広告が、あたりまえのように掲載される時代だった。
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 彼は慎重に言葉を選びながら時間をかけてまとめると、以下のような文案をつくった。
  
 求妻(つまをもとむ)、当方四十代、当方中年の紳士、実業家、財数萬円、年収三千円、温厚篤実、親切無類、初婚、年齢を問はず、支度望まず、人物本位、成るべく初婚、日曜在宅、姓名在社。(自宅住所) 木内良三
  
 「年収三千円」は、現在の200万円ほどになる。非常に少ない額のようだが、当時の家賃でも明らかなように生活必需品(固定経費)の物価がかなり安い時代なので、いまの感覚だと年収500万前後といった感触だろうか。ちなみに、「財数萬円」となっているが、当時の1万円を物価指数(1927年)で換算すると636万円ほどになる。ただし、1929年(昭和4)現在といえば、金融恐慌から世界恐慌の真っただ中であり、インフレで「財」はかなり目減りしていたのではないだろうか。
 この求婚広告を近くの新聞店へ持ちこむと、数日後の朝刊に掲載された。すると、木内良三の新しい家に続々と手紙が舞いこみはじめた。ほとんどが、結婚相談所や仲人会の広告だったが、その中に3通ほど個人からの手紙が混じっていた。1通目は顔写真を送れという、玄人っぽい「小町ちよ子」と名のるちょっといかがわしい内容、2通目はやたら事務的で理屈っぽい文面の女性「山村その」からの手紙、3通目が娘と結婚してほしいという母親「鈴木ふく」からの手紙だった。
 次の日曜日、やはり怪しげな手紙を寄こした「小町ちよ子」は訪ねてこなかったが、事務的でそっけない手紙の「山村その」はやってきて、男女同権のまるで演説会のような議題を一方的にしゃべり散らして帰り、やがて派出婦が「鈴木ふく」の来訪を告げにきた。鈴木ふくは、夫に早く死に別れたため係累がほとんどなく、もうすぐ20歳になるひとり娘を早く結婚させ楽をさせたいと、常日ごろから考えている母親だった。
 ところが、娘の年齢があまりに若すぎるので45歳の木内良三が逡巡し、どうせ妻にするなら鈴木ふくのような清楚で落ち着いた同年輩の女性がいいと思いはじめ、ふたりは生活上のことをいろいろ話しているうちにいつしかお互いの相性がいいことに気づき、「あの、私と結婚しては頂けませんでございませうか。」「よく言つて下さいました。実は、私も……」と、ふたりは思わず意気投合してしまう。
 鈴木未亡人は、思わぬ展開に木内良三の家を上気しながら辞すと、久しぶりにウキウキと明るい弾む気持ちを抱えながら、娘へどのように話そうかと自宅への道を急いだ。帰宅すると、娘がモジモジとなにかいいたそうにしているので訊ねると、思いきったように実は「私、或る方にね、結婚を申しこまられているのよ。」と打ち明けた。鈴木ふくは微苦笑しながら、「実はお母さんもね……」と話しを切りだす前に、お茶を一気に飲み干した。
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 プロットが端正で、よくまとまった気持ちのいい短編だが、あくまでも「結婚」「夫婦」「家庭」といった形式や概念が、「一人前」になることの環境条件だった時代の小説だ。いまの若い子たちが読んだら、なにもそんなに無理して結婚しなくても……と、おそらくすぐにはピンとこないかもしれない。もっとも、「一人前」や「オトナ」になるという概念以前の課題として、男ひとり女ひとりで暮らすことが非常に生きにくい肩身の狭い時代だったこと、特に女性の場合は経済的な理由で働くことが例外的で、奇異な存在として見られがちな時代だったことも、若い読者たちには背景として伝えなければわからないだろうか。

◆写真上:よく結婚式の花嫁花婿の姿を見かける、目白山(椿山)は椿山荘Click!の滝。
◆写真中上は、流行らなくなった文金島田Click!のかつら。は、1929年(昭和4)出版の『新進傑作小説全集・第二巻/池谷信三郎』の表紙()と著者()。
◆写真中下は、近所にある下落合の目白教会Click!でときどき見かける結婚式。は、1939年(昭和14)10月9日の東京日日新聞に掲載された求婚広告。は、人力車に乗って登場する花嫁花婿をよく見かける浅草三社権現Click!境内の結婚式場。
◆写真下は、やはり花嫁花婿の姿をよく見かける雪の神田明神Click!の楼門。は、1942年(昭和17)1月21日の東京朝日新聞に掲載された東京府の花嫁募集広告。こんな広告に乗せられ、中国大陸に渡った女性たちは敗戦時にとんでもない辛酸をなめることになる。は、わたしが見合いするとしたら事前の必需品になりそうな飲み薬「バカナオール」。

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漱石を松山中学校に呼んだ浅田知定。 [気になる下落合]

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 少し前に、夏目漱石Click!『坊っちゃん』Click!にからめ、愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校)の卒業生だった安倍能成Click!の随筆「くにことば」(『朝暮抄』収録/1938年)をご紹介していた。そもそも、なぜ夏目漱石は東京を離れ、松山へ赴任することになったのだろうか? “灯台下暗し”とはこのことで、その答えがごく近所に眠っていた。
 当時、松山市北京町に住んでいた愛媛県参事官の浅田知定は、尋常中学校(のち松山中学校)の校長・住田昇から英語教師に欠員ができたので、後任を誰にしようかという相談を受けていた。従来は、1年契約でC.ジョンソンという外国人教師を雇っていたのだが、いわゆる“御雇い”外国人とあって、給与が150円/月と高めだった。当時の150円は、現在の物価指数で換算すると60万円前後になる。そこで、浅田知定は月給80円ぐらいで、誰か英語を教えられる日本人教師はいないかと、同郷(福岡県久留米)の出身で当時は東京美術学校Click!の教授(ドイツ語)をしていた菅虎雄に相談した。
 美校の菅虎雄は、東京のあちこちで普及しはじめていた電球が頭の上でピカッと点灯するように、就職試験に失敗してブラブラしている、学生時代からの友人の顔がひらめいたのだろう。その友人とは、当時、高等師範学校の英語教師を悩んだすえに辞職し、英語新聞社を受けて不採用になり途方に暮れていた夏目金之助(漱石)のことだ。なにをする気も起きず気力が萎えて、いわゆる神経衰弱の症状にみまわれ鎌倉に参禅するなどしていた夏目漱石は、今日の用語でいえば鬱状態だったのだろう。
 ちょっと余談だけれど、わたしが子どものころは英語の新聞のことを「英字新聞」と呼ばれることが多かったけれど、「英字」という文字は存在しないので正確には英語新聞が正しいのだろう。英語に使われている文字は、ローマ時代に発明されたローマ字のアルファベットであって、イギリスで発明された「英字」ではない。ほかに、ローマ字のアルファベットを基準に採用している国の新聞のことを、「フランス字新聞」や「ドイツ字新聞」と呼ばないのと同じだと思うのだが……。
 菅虎雄は、松山の英語教師の職を彼に奨め、また漱石自身も環境が変われば気分も変わると考えたのだろう、松山赴任を承諾している。、1987年(昭和62)に筑摩書房から出版された『夏目漱石全集』第2巻の『坊っちゃん』では、こんなふうに描かれている。
  
 三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立(ママ)ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。/卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
  
 愛媛県参事官の浅田知定が提示した英語教師の月給は80円だったが、『坊っちゃん』の数学教師ではさらに半額の賃金ということになっている。40円は、今日の給与に換算すれば15万円前後になってしまう。まあ、『坊っちゃん』の設定は学校を卒業したばかりということで、東京帝大卒で師範学校の英語教師を勤めていた漱石のキャリアとは異なる新卒だから、当時の給与としては半額ぐらいがリアルな数字だったのだろう。
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夏目漱石「坊っちゃん」角川つばさ文庫.jpg 夏目漱石「坊っちゃん」講談社BOOK倶楽部.jpg
 1895年(明治28)3月30日に、漱石の送別会が神田の学士会館で開かれ、4月7日に新橋駅Click!を出発し9日に松山に到着、10日から中学校嘱託の英語教師に着任している。おそらく、松山では参事官の浅田知定と住田昇校長らが出迎えたのだろう。
 当時は、愛媛県の教育参事官をつとめていた浅田知定は、1861年(文久元)に久留米藩の奥御勝手役80石の家に生まれ、1880年(明治13)に東京へくると東京大学予備門文科に入学している。1887年(明治20)には東京帝大法科大学政治学科を卒業し、内務省に勤務したあと1894年(明治27)には愛媛県の教育行政をになう参事官に就任した。つまり、浅田自身も漱石が赴任する前年に、愛媛県へ着任したばかりだったことがわかる。
 また、漱石を浅田に紹介した菅虎雄も、1864年(元治元)に久留米藩有馬家典医の家に生まれ、東京にきて東京帝大文科大学独逸文学科を卒業している。浅田知定より3歳年下の菅虎雄だが、同郷人ということで帝大時代に仲よくなったのだろう。また、菅が独逸文学科3年のとき、漱石が英文科1年に入学している。当時の文科大学(のち文学部)は、1学年の学生が30名前後しかいなかったというので、全員が顔見知りだったのだろう。漱石と菅虎雄が親友になるのは、在学中ではなく大学を卒業したあとのことだ。
 こうして、尋常中学校(松山中学校)に赴任した夏目漱石だが、松山の水があわなかったらしく日々ストレスがたまる一方だったようだ。そんな漱石を落ち着かせようとしたのか、浅田知定は漱石に何度か縁談(見合い話)をもちこんでいる。浅田は、漱石がなんとか松山で長く英語教師をつとめてくれるよう、地元の嫁さんを世話しようとしていた。それが、「マドンナ」のような女性だったら少しは漱石も心動いたのかもしれないが、どうやらまったくちがうタイプだったらしく、漱石はますます憂鬱になっていく。
 そのときの浅田知定と夏目漱石の様子を、2003年(平成15)に岩波書店から出版された『漱石全集』第13巻の付録月報に掲載された、原武哲『漱石を「坊っちゃん」にした2人―菅虎雄と浅田知定―』から引用してみよう。
  
 浅田は漱石を何とか長く松山に落ち着かせたいと思い、あれこれ縁談を持ち込んだ。夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』によると、「県の参事官の或る方」(浅田知定)宅で若い女と見合いをしたが、馴れ馴れしくやって来てしゃあしゃあと相手をし、他愛もないことに手放しでげらげら笑う謹みのないのに閉口したという。
  
 おそらく浅田は気をまわし、江戸東京育ちの漱石へできるだけ趣味があうよう、ざっくばらんで少しじゃじゃ馬がかった利発かつ活発な、明るい性格の女性を紹介したつもりなのだろうが、日々のストレスが鬱積している漱石にしてみれば気障りで、「閉口」する以外になかったのだろう。浅田の思惑とは裏腹に、漱石は縁談を断りつづけた。松山に赴任して1年がすぎたころ、漱石は熊本にいる菅虎雄へ松山での不平・不満をぶちまけている。
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 浅田知定は、1896年(明治29)に愛媛県の参事官から岩手県の書記官へと転勤し、盛岡市鷹匠小路へ居住している。つづけて、1898年(明治31)には青森県へと転任し、同年には貴族院書記官として東京へもどっている。1901年(明治34)になると、浅田は台湾澎湖庁長に転出し、1903年(明治36)には臨時台湾糖務局課長に着任、そのとき局長をつとめていた新渡戸稲造Click!をサポートしている。新渡戸が転任したあとは、そのまま横すべりで台湾湾糖務局の局長に任命された。
 その後、浅田知定は官吏をやめ、1910年(明治43)ごろに大倉喜八郎Click!らが出資した台湾の新高製糖の専務に就任し、台湾では実質的な社長として製糖事業を展開していったようだ。下落合473番地(現・下落合3丁目)に自邸を建設したのは、ちょうど同社に在職中の大正初期ではないかと思われる。1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図を参照すると、同年に竣工する下落合464番地の中村彝アトリエClick!はいまだ採取されていないが、その西並びにあった広大な浅田知定邸はすでに採取されている。
 1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、中村彝アトリエ(のち鈴木誠アトリエClick!)の西100mほどのところに、広大な浅田邸がフルネームで記載されている。現在でいえば、オープンレジデンシア目白御留山やメゾン浅田などのマンション群から、アダチ版画研究所のある一画まですべて含め、七曲坂Click!筋に面した正方形に近い敷地が、すべて浅田知定邸だったことになる。ただし、「下落合事情明細図」が作成されたのと同年、浅田知定は下落合の自邸で死去している。65歳だった。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同地番に住んでいた長男の浅田俊介が紹介されている。短いので、同書より引用してみよう。
  
 従六位/外務事務官 浅田俊介  下落合四七三
 氏は福岡県士族浅田知定氏の二男(ママ)にして明治二十七年九月を以て出生。大学卒業後外務省に出仕 現時通商局勤務たり、家庭夫人澄子は大分県人朝倉菊三郎氏の二女である。
  
 浅田俊介は、戦前戦後を通じての外交官であり、その名を知る方も多いかもしれない。
浅田邸1936.jpg
浅田知定邸跡2.jpg
坊っちゃん竹脇無我.jpg
 1896年(明治29)ごろ、なんとしても松山に定住させたい浅田知定と、熊本にいた菅虎雄に「もうイヤだ!」と泣きつき、熊本での職探しを依頼する漱石「坊っちゃん」先生との間には、もっといろいろなエピソードが眠っていそうだ。特に、地元の松山では語り草になっている、浅田「いくな!」と漱石「やだ!」の伝承が残っている気がするのだが。w

◆写真上:すでに建て替えられてしまったが、正面の近代建築だった住宅も左手の道路も、その向こう側の住宅街もすべて浅川知定邸の敷地内だった。
◆写真中上は、手軽に読める夏目漱石『坊っちゃん』で新潮文庫版()と集英社文庫版()。は、角川つばさ文庫版()と講談社BOOK倶楽部版()。
◆写真中下は、1916年(大正5)作成の1/10,000地形図に採取された下落合473番地の広大な浅田知定邸。いまだ建設中だった、下落合464番地の中村彝アトリエは採取されていない。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に収録された同邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に収録された浅田邸。すでに現在の道筋ができており、相続の関係からか浅田邸は本来の敷地の30%ほどまで縮小している。
◆写真下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる浅田邸とその界隈。もともとの敷地では、浅田邸の北隣りは目白福音教会Click!メーヤー館Click!で、同写真撮影時の南隣りの古畑邸は古畑種基Click!邸、東隣りは大正末に中村彝アトリエの北側から西側へ移転した一吉元結工場Click!は、七曲坂筋の左手(東側)全体が浅田知定邸の敷地だった。は、主人公(竹脇無我)と米倉斉加年Click!(赤シャツ)でわたしがもっとも印象的で違和感の少なかった1970年(昭和45)のドラマ『坊っちゃん』(NTV)。背後に見える石碑は、下落合の安倍能成Click!が揮毫した早稲田駅2番出口近くの喜久井町1番地にある「夏目漱石生誕之地」碑。
おまけ
 1920年(大正9)に制作された中村彝『目白の冬』は、目白福音教会にあったW.M.ヴォーリズClick!設計の宣教師館(メーヤー館)Click!と、一吉元結工場Click!の干し場を描いたものだが、画面左手に見える木立の繁った敷地が、記事の主人公・浅田知定邸の北東角だ。
中村彝「目白の冬」1920.jpg

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今西中通が描いた上落合の「雪景色」。 [気になる下落合]

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 先日、1985年(昭和60)に三彩社から限定500部で出版された『今西中通画集』を、近くにお住まいのpinkichさんよりお贈りいただいた。雨の中、わざわざ拙宅までとどけてくださったのだ。ほんとうに、ありがとうございました。>pinkichさん 同画集に目を通して、改めて今西中通が残した画業の全貌を知ることができた。
 今西中通Click!は、1930年(昭和5)から上落合851番地Click!にアトリエをかまえ、1934年(昭和9)に江古田1丁目81番地へ転居するまでの4年間をすごしている。画集には、1930~1932年(昭和5~7)にかけて制作された、住宅街の雪景色を描いたタブローのモノクロ画面が4点ほど、すべて『風景』という暫定(?)タイトルのまま掲載されている。時期的にみても、また当時の道路は舗装されていないのでグチャグチャにぬかるんでいたであろう点や、降雪による交通機関の混乱などで遠出はしにくかったとみられる点も考えあわせると、アトリエのある上落合の近所を描いた作品の可能性が高いとみられる。
 当時の東京は、現在よりも冬の平均気温がかなり低く、年間を通じて大雪の日もめずらしくなかった。ちなみに、今西中通が渋谷道玄坂の下宿から上落合851番地に転居してきて、いまだ周囲の街並みがめずらしく眺められていたと思われる1930年(昭和5)を例にとると、1年のうち小雪の日は除いて大雪の日が8日もある。麹町にあった東京中央気象台Click!の記録によれば、同年の2月1・2日にかけて29.4mm(降水量換算:以下同数値)、2月6日に14.3mm、2月26・27・28日にかけて36.0mm、3月6・7日にかけて15.0mmの降雪があった。気象台があった麹町区とちがって当時の東京郊外なら、さらに多くの積雪があったと想定しても不思議ではない。また、同年は12月にも降雪が記録されている。これに小雪の日も含めれば、年間15日前後の降雪はめずらしくない時代だった。
 画集のモノクロ画像を観察してみると、森林の地面や家々の屋根などにもかなりの積雪があったように見えるので、今西中通は大雪のやんだ合間を見はからって、画道具を手に近所を歩きまわりながらこれらの風景を描いたものだろう。
 まずは、画面の下を蛇行ぎみの小川が流れているようで、その向こう岸には宅地造成を終えたとみられる空き地や、屋根に雪を載せた住宅街が拡がっている。すぐにも、当時は小流れだった妙正寺川Click!と上落合の街並みが思い浮かぶ。遠景に崖線の連らなりが見えないところをみると、川の北岸の小高い位置から南を向いて描いた風景だろうか。
 の画面は、当時の典型的な2階建て住宅を描いているが、個人邸というよりも上落合にあまた建設された貸家のような風情だ。上落合851番地にあったアトリエのすぐ北側には、1930年(昭和5)5月に林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻が転居してくるコンパクトな2階家Click!(上落合850番地)が建っていたが、この貸家には少し前まで尾崎翠Click!が住んでいた。尾崎翠Click!は同年、近くにある上落合842番地の家へと移るが、その際にもとの借家の大家を林・手塚夫妻に紹介している。の画面は、今西中通がアトリエをでたすぐ北側の位置から、親しかった林・手塚夫妻の2階家を描いているのかもしれない。
 『今西中通画集』に掲載された年譜の、1930年(昭和5)から少し引用してみよう。
  
 上落合八五一に住む。川口軌外を知る。「フサ像」のモデルであったフサのいた喫茶店に通う。この家の二階に、後フサと結婚した早大生の藤原氏がいて、下を今西が使っていた。中間冊夫は今西と近所の林芙美子のところへ時々訪問している。[中間氏談]
 五月に、林芙美子宅は上落合八五〇番地に越した。今西とは何時とはなく知り合うようになった。そのころの今西は生活に困ったわけでなく、今西の財産を管理している田島家から仕送りがあった。郷里からも友人がやってきて居候がいて、貧乏たらしいところはなかった。林家では将棋をよくやったり、林家とは今西結婚後まで交際があり、結婚のお祝いに林家から鉄瓶がおくられた。[林緑敏氏談]
  
今西中通画集1985.jpg 今西中通.jpg
風景①.jpg
風景②.jpg
 当時、独立美術協会Click!会員のひとりである川口軌外Click!は、今西アトリエから眺められる北側の丘上、下落合1995番地にアトリエClick!を建てて住んでいたので、今西中通はときどき川口アトリエを訪問している。このあと、今西中通の表現がフォービズムからキュビズムへと変貌していくのも、川口からの少なからぬ影響があったのだろう。
 文中では、今西中通が林芙美子Click!と「知り合」ったように書かれているが、落合地域の他の画家たちと同様に、まず知りあったのは落合町の各地で写生しながら、洋画家をめざしていた夫の手塚緑敏Click!(のち林緑敏)のほうで、その連れ合いとしての林芙美子を知ったのだろう。「将棋をよくやった」相手も、また結婚時に「鉄瓶」を贈ってくれたのも、ついにプロの画家にはなれなかった人の好い手塚緑敏Click!だったように思う。
 さて、の画面は右手に社(やしろ)の拝殿、または本殿のような建物が描かれている。その周囲には不ぞろいの玉垣のような、あるいは大小の杭のようなものが並んでおり、神域の結界を形成しているように見える。手前には、雪の野原か空き地に湾曲した道路らしい筋が描かれている。上落合や下落合を問わず、わたしはこのような風景を形成する社をかつて実際に見たことはないが、1930~1932年(昭和5~7)のころに限定すると、改正道路(山手通り)の工事Click!で消滅してしまった、上落合578~579番地の大塚古墳Click!を境内にしていた大塚浅間社Click!が、画面の風情にもっとも近いだろうか。
 上落合大塚古墳をベースに築かれた落合富士Click!は、画面右手の拝殿が描かれた右端から画面の右枠外にこんもりと半球形に盛りあがって位置しており、大小不ぞろいで杭(おそらくコンクリート製)に細い鉄パイプを通した玉垣(?)で境内が囲まれていた。月見岡八幡社Click!守谷源次郎Click!が大正末ないしは昭和初期に撮影した写真には、同社の拝殿や落合富士とともに、その不ぞろいだった杭状の玉垣(?)の一部までがとらえられている。
 最後の雪景色は、おそらくアトリエの近所にある雪が積もった雑木林を描いたもので、どこの風景なのかまったく見当がつかない。逆光で並ぶ木々のうしろには、なにか建築物のようなかたちがありそうなのだが、モノクロ画面では判断しにくく不明だ。画面をカラー画像で観られれば、もう少し情報がつかめて何かの形状がつかめるかもしれない。以上4点の『風景』が、上落合の雪景色を描いたとみられる今西中通のタブローだ。
上落合850尾崎宅.jpg
風景③.jpg
大塚浅間神社.jpg
 さて、いただいた『今西中通画集』の年譜に、少し気になるところがあったのでついでに書いてみたい。それは、1933年(昭和8)の項目に記載されている。以下、引用してみよう。
  
 (前略) 林芙美子『放浪記』出版記念に「春景色」二十五号を贈る。
 淀橋区下落合に住む(上落合の町名変更で前記と同じ場所)。
  
 この記述には、ふたつの大きな疑問がある。ひとつは、今西中通が上落合851番地に住んでいた1934年(昭和9)の時点まで、東京市が35区制Click!への移行(1932年)とともに上落合が1丁目と2丁目に分けられた際、一部に細かな地番変更はあっても、上落合851番地が「下落合」になってしまうような「町名変更」はなかった。
 ふたつめの疑問は、強いて「町名変更」に触れるのであれば、1942年(昭和17)ごろ蛇行した妙正寺川の直線整流化工事Click!がほぼ完了した際、以前から同河川を下落合と上落合の境界としていたせいで、上落合の一部の敷地が妙正寺川の北側、つまり下落合5丁目(旧・葛ヶ谷御霊下)側へはみ出してしまう結果となった。このとき、上落合851番地の北側一帯にあたる850番地の敷地は、ほとんどが妙正寺川に“水没”している。しかし、再び直線化された妙正寺川が町境とされ、川の北側にはみでた上落合の土地で町名変更が行われたのは戦後のことであり、今西中通が死去してからずいぶんあとの時代だ。
 また、上落合851番地の敷地は、妙正寺川の工事によってもなんら影響を受けておらず、戦前の淀橋区時代から戦後の新宿区時代を通じてもそのままであり、1966年(昭和41)に上落合が1丁目~3丁目に分割されるまで、一貫して上落合2丁目851番地のままだった。生前の今西中通が「町名が淀橋区下落合に変わっても同じ家に住んでいた」と語っていたのか、友人たちによる誤った証言なのか、あるいはのちの研究者が行なった調査にもとづくなんらかの錯誤なのか、この年譜に見られる記述にも尾崎翠の旧・住所Click!と同様に、なにか大きな勘ちがいがひそんでいそうだ。
風景④.jpg
上落合851番地1936.jpg
上落合851番地1938.jpg
 今回は、今西中通が上落合時代に残したタブローの風景作品について書いたが、彼が同じ時期に描きとめた素描の中にも、落合風景らしい画面がいくつか残されている。ときに鉄道だったり、高圧鉄塔が見える住宅街だったりするのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:直線整流化工事で妙正寺川に水没した上落合850番地界隈と、対岸に見えているのは今西中通が暮らした昔日の上落合851番地の住宅街。
◆写真中上は、1985年(昭和60)に限定500部で出版された『今西中通画集』(三彩社/)と、1938年(昭和13)ごろに撮影された今西中通()。は、1930~1932年(昭和5~7)制作の今西中通『風景』は、同時期に制作された同『風景』
◆写真中下は、尾崎翠に紹介された上落合850番地の借家2階で撮影された林芙美子。は、1930~1932年(昭和5~7)ごろ制作された今西中通『風景』は、月見岡八幡社の守谷源次郎が撮影した大塚浅間社の境内。
◆写真下は、1930~1932年(昭和5~7)制作の今西中通『風景』は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合851番地界隈。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同区画。工事直前の様子で、上落合850番地の家々はすでに取り壊されている。
おまけ
 1930~1932年(昭和5~7)ごろに描かれた、今西中通『風景』のカラー画像を見つけたので掲載しておきたい。画面右手の拝殿のような社建築らしい建物の左手には、樹間を透かして赤い鳥居のようなものが確認できる。これが大塚浅間社の風景でないとすれば、戦後に移転する月見岡八幡社(一部が現・八幡公園)の、境内の一画をとらえたものだろうか。
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下町で和栗のマロンパフェ食べくらべ。 [気になる下落合]

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 秋になると毎年、栗好きなわたしとしてはマロンパフェが食べたくなる。いつだったか、東京の代表的なフルーツパーラーClick!(江戸期には水菓子屋)のパフェをご紹介したことがあったけれど、江戸期の1846年(弘化3)に創業し落語にも登場した神田「万惣」が、事業継続を考慮しない東京都に耐震設計未満とされてつぶされてしまい、かわりに新宿のタカノフルーツパーラーを加えて東京の「3大パフェ店」としていた。
 でも、(城)下町Click!が故郷で味覚もそれに近いわたしとしては、フルートグラスのような細い容器に入った、オシャレで甘みを抑えた乃手っぽいタカノフルーツパーラーのパフェよりも、やはり下町の千疋屋や資生堂のほうが性にあっているらしい。そこで、マロンパフェの食べ歩きではないけれど、改めてパフェの美味しい下町の店「4大パフェ店」をご紹介したい。その多くが、江戸期や明治期にスタートした水菓子屋の時代から営業している店舗で、そのうちの2店はわたしの先祖たちが常連だった店だ。
 まず、1834年(天保5)創業の日本橋千疋屋の総本店だが、2022年の秋には和栗を十分に確保できなかったものか、オーソドックスな本来のマロンパフェを提供していなかった。「国産渋皮栗のパルフェ」という、マロンパフェもどきの商品は10月から出していたが、いつものスタンダードなマロンパフェとはまったく異なる商品なので今年はスルー。ここの本来のマロンパフェは、大きなパフェグラスにモンブランアイス、マロンクリーム、生クリーム、バニラアイス、そしてふんだんな渋皮和栗を丸のままあるいは砕いて用い、パイ生地を焼いたビスケットにセルフィーユ(ハーブ)を添えた仕様だった。
 マロンパフェをひとつ頼み食後にコーヒーを飲むと、もう昼食がいらないほどの充足感や満腹感を憶え、その量や料理法が他店を圧倒しているのは、フルーツパフェと同様にマロンも同じだった。「あ~、美味しかった」だけで客を帰さず、「今年の秋は、もうこれで満足したからいいか」と思わせる、圧倒的なCS(顧客満足度)を提供してくれる店だ。料理にはうるさかったらしい父方の祖母が常連だったのも、むべなるかなという気がする老舗だ。
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 さて、日本橋千疋屋総本店からのれん分けして独立したのが、1881年(明治14)の京橋千疋屋本店だ。同店および銀座千疋屋本店もそうだが、いかに元祖の日本橋千疋屋総本店とのちがいをアピールし、料理の差別化をはかるのかが、代々つづく最大のメニュー課題だったろう。京橋千疋屋本店のパフェ類は、量がやや少なめで食事のあとのデザートか、小腹の空いた3時のおやつには最適だ。
 秋になると毎年「和栗のパフェ」をメニューに載せているが、それを単独で注文するというよりも、同店で食事をしたあとデザートの楽しみとして味わう、あるいはおやつに注文してコーヒーや紅茶とともに味わうのが本来のコンセプトなのだろう。渋皮和栗を用いたモンブランクリームにバニラアイス、渋皮つきの和栗、パイ生地のフレーク、コーヒーゼリー、そしてチョコレート(マロンチョコ?)をトッピングしている。
 京橋千疋屋本店では、面白い経験をしている。わたしが午前中の早めに出かけたせいか、「和栗のパフェ」を注文すると、スタッフのお姉さんがちょっと困った顔をした。ほかのパフェならすぐにできるが、きょうのぶんの和栗が遅れていまだとどいていないという。わたしがメニューを眺めながら、よほど残念な表情をしていたのだろう、「少々お待ちください」といって一度奥へ引っこみ料理スタッフと相談してからもどると、「少しお時間をいただけますか? すぐに手配をいたしますから」と答えた。
 およそ15~20分ほど待っただろうか、店にはとどいていなかったはずの和栗を使った同店ならではのパフェが、テーブルへ魔法のように出てきた。おそらく、注文を受けた料理スタッフのひとりが自転車かクルマかはわからないが、京橋通りを北上して日本橋をわたり日本橋千疋屋総本店で和栗を分けてもらったか、あるいは京橋通りを南下して銀座通りの4丁目で右折し、銀座千疋屋本店で分けてもらったのではあるまいか。それぞれの地域で本店を名のってはいても、先祖は同じ江戸期からつづく水菓子の大店(おおだな)なので、素材を融通しあうフレキシビリティが、そのまま現在もつづいているのかもしれない。
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京橋千疋屋.JPG
 服部時計店(和光ビル)Click!の斜向かいにある、その銀座千疋屋本店だが創業は1894年(明治27)といちばん新しい。当初は「新橋千疋屋本店」という名称で、汐留にあった旧・新橋停車場Click!の近くに開店していたようだが、東海道線の軌道筋が大きく変わり新・新橋駅Click!東京駅Click!が竣工した1914年(大正3)以降に、銀座商店街Click!の繁栄を横目でにらみつつ、数寄屋橋筋の現在地へ移ってきたものだろう。創業130年近い老舗だが、のれん分けした千疋屋本店の中ではもっとも新しい店舗だ。
 ちょっと余談だけれど、最近「老舗(しにせ)」という言葉をよく耳にするが、「昭和15年の戦前から営業している老舗です」などと聞くと、非常に奇異な感じをおぼえるのはわたしだけではないだろう。この地方で「老舗」といえば、少なくとも100年以上(4~5代以上)つづいた店でないと老舗とは呼ばないので、1~3代で築いた店は「古い店」「親の代からの店」ではあっても「老舗」とはいわない。「1970年代の初めからつづく喫茶店の老舗です」にいたっては、「オレと同時代じゃん、どこが老舗なんだよ!」と反発したくもなる。おかしな言葉や用法は、いつかの「世界観」Click!と同様、どこかに書いて残しておかないと誤りがそのまま継承され、定着しそうなのでとっても気持ちが悪い。
 銀座千疋屋本店は、千疋屋の中では唯一むき栗を使った「和栗のパフェ」で、渋皮はきれいにそぎ落としてある。渋皮栗はマロンアイスに用いられ、バニラアイスに生クリーム、丸ごとあるいは砕いたむき栗をふんだんに使って、最後にセルフィーユを添えている。千疋屋各店のパフェ料理では、もっともシンプルで“基本に立ち返った”ような仕様をしている。オリジナリティを追求した演出や妙な気どりがなく、おそらくマロンパフェをたっぷり味わいたいというストレート志向のお客には、もっともフィットする店ではないだろうか。
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 さて、最後はご想像どおり、1902年(明治35)創業の銀座資生堂パーラー本店だ。同店が開店したのは1902年(明治35)だが、松本順Click!が早稲田に創設した蘭疇医院Click!に、彼の西洋医学校での教え子だった福原有信が売薬合資会社「資生堂」を創業したのは、明治初期の1971年(明治4)ごろのことだ。その後、すぐに銀座へと移転し、1872年(明治5)に「銀座資生堂薬局」と社名を変更している。
 現在の資生堂の沿革には、早稲田における松本順の蘭疇医院との関係や、創業由来のエピソードには触れず、1872年(明治5)の銀座への移転時からしか掲載されていない。おそらく、彰義隊や靖共隊を支援し監獄へ放りこまれたにもかかわらず、薩長政府にタテつきつづけた醤油の大店・亀甲萬Click!(キッコーマン)が、大正期に法人化されてからの沿革しか掲載しないのと同様、敗戦まで薩長政府流れの国に忖度・遠慮した記述を、戦後もそのまま踏襲しつづけ訂正していないのだろう。銀座資生堂に喫茶部門が設置され、それが資生堂パーラーとしてオープンしたのが1902年(明治35)というわけだ。すでに薩長政府流れの国家は、とうに破産・滅亡しているのだから、両社とも遠慮せずに江戸期に由来する創業者の経緯や社の沿革もちゃんと載せてほしい。
 同店で出すマロンパフェは、「和栗のモンブランパフェ」と名づけられている。モンブランアイスにミルクアイス、モンブランクリーム、生クリーム、紅茶(ダージリン)ゼリー、渋皮和栗の丸ごととピース化したものをたっぷり加え、トッピングにはチョコレートのスティックにアーモンドとキャラメルのフロランタン、おまけに和栗の上には金箔が添えられている。とても贅沢で複雑な組み合わせだが、こなれた風味でさすが“喫茶店の王者”ならではのパフェだ。そう、先の千疋屋の3点は“フルーツパーラーの王者”だが、資生堂は店名にパーラーとついていても、昔から銀座を散歩する家族連れが立ち寄る喫茶店のイメージが強い。以前にも書いたが、大人から子どもまで楽しめる万人受けしそうな風味であり、それぞれのアイスやクリームなどの作り方も同店ならではの伝統的なレシピだろう。中には、曽祖父母たちが楽しんだメニューも、そのままの味で残しているのかもしれない。
 わたしが同店へ出かけたとき、見まわせばお客は全員が女性で寿司屋や焼き肉屋、牛丼屋へひとりで入ったときの女性は、おそらくこんな気持ちになるのではないかと想像してしまった。ただし、資生堂パーラーの接客マナーはピカイチで、前に訪れたタカノ本店のパフェリオのように男が座っても不審そうな顔はされずw、差しだされたメニューの1点をすぐ指さしたわたしに、かなり年配の女性スタッフは「お決めになっていらっしゃったのですね!」と、嬉しそうにメニューをたたむと急いで厨房に消えていった。
 それにしても、午前中の出勤前と思われる女性が、パフェにコーヒーあるいは紅茶を飲んでいるのに、改めて銀座資生堂パーラーが昔から“喫茶店”のイメージのままであることに気づく。かなり高くつく「朝食(?)」がわりなのだろうが、朝から豪華なパフェを食べてランチのとき胃もたれをしないのだろうか。いや、人のことは決していえないけれど……。
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銀座資生堂パーラー.JPG
 この(城)下町4店で改めて気づいたのは、渋皮をむいた和栗を用いる銀座千疋屋本店のオーソドックスなマロンパフェが、かなり美味で強く印象に残る点だ。やはり、シンプルで飾らない正統的(あるいは伝統的)な仕様が、飽きがこないで何度でも食べたくなるポイントなのだろうか。もっとも、これら4店の料理はすべてが高レベルでの比較であり、そこいらで食べるパフェの風味とは、いちおう次元が異なることは最後にお断りしておきたい。

◆写真上:銀座千疋屋本店の窓辺から眺めた、歩道にある地下鉄×3線の銀座駅入口。
◆写真からへ、日本橋千疋屋総本店と本来のあるべき姿である同店のスタンダードな「マロンパフェ」、親切なスタッフの京橋千疋屋本店とデザートやおやつに最適化した「和栗のパフェ」、銀座千疋屋本店とむき栗を使った伝統的でオーソドックスな「和栗のパフェ」、スマートな接客の銀座資生堂パーラーと洗練された「和栗のモンブランパフェ」。

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上落合で暮らし荼毘にふされた大西瀧治郎。 [気になる下落合]

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 上落合1丁目509番地(現・上落合2丁目)には、海軍の大西瀧治郎が住んでいた。広大な野々村金五郎(金吾)邸Click!(1954年に移転した現・落合第二小学校Click!)の、道路をはさんだすぐ南側に接する敷地の一画で、特高や憲兵隊Click!による弾圧が激しくなると米国へ亡命する八島太郎(岩松惇)Click!アトリエの、路地をはさんだ向かいにあたる。
 戦中派の方は、大西瀧治郎の名前は忘れられないだろう。爆弾を抱いて敵艦に体当たりする、あの生きて帰還できずもはや作戦とも呼べない海軍の「神風特別攻撃隊」を編成した人物だからだ。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)では、「海軍中佐/海軍航空本部教育部員」として掲載されているが、詳しい人物像は紹介されていない。敗戦時、大西瀧治郎は海軍中将だった。
 また、1938年(昭和13)の「火保図」にも、同地番の大西邸が採取されているので、少なくとも太平洋戦争がはじまる前後までは上落合に自邸があったとみられる。なお、同邸は1945年(昭和20)4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!で、上落合のほぼ全域が壊滅Click!したときに延焼・焼失している。
 大西瀧治郎は、1909年(明治42)に海軍兵学校へ入学(第40期)すると、1912年(明治45)に同校を卒業している。ミッドウェイ海戦のとき、空母「飛龍」の艦長として艦と運命をともにした山口多聞とは同期生だった。その後、海軍大学校をめざすが何度か受験に失敗している。大西は、当時から大艦巨砲主義に反対し、空母の艦載機など航空機を中心とした軍備を唱えていたが、海軍部内に根強い従来の戦艦中心主義の勢力と鋭く対立した。これからは制空権の有無が戦闘の勝敗を決すると考えていた、同期入学の山口多聞とは意見があっただろう。また、当時は大尉だった中島和久平が海軍を辞め、民間の飛行機製作所(のちの中島飛行機Click!)を創設するのにも協力している。
 1928年(昭和3)には、日本初の空母「鳳翔」の飛行長に任命されて艦隊勤務につき、1932年(昭和7)には空母「加賀」の副長に転任している。同年に『落合町誌』が編纂されているので、大西は海軍航空本部教育部から空母「加賀」の副長へと転出するころだったのがわかる。翌1933年(昭和8)には、佐世保海軍航空隊指令として転任しているので、上落合の自邸にはほとんど帰らなかったのではないかと思われる。
 ちょうどこのころ、大西瀧治郎は第1航空戦隊の山本五十六Click!らとともに、「航空主兵・戦艦無用」論を海軍内で展開し、海軍建造部ですでに計画化されている呉の第1号艦(戦艦「大和」Click!)と長崎の第2号艦(戦艦「武蔵」Click!)の建造を中止し、同予算で大型空母(正規空母)を3隻建造すべきだとして強く反対している。また、「大和」型戦艦を1隻建造する予算があれば、最新鋭の戦闘機を1,000機製造できると主張して、海軍部内の大艦巨砲主義者たちと対峙した。このころから、大西は海軍航空隊でも陸軍航空隊でもなく、日本「空軍」の設立をめざすようになったといわれている。
 1937年(昭和12)には、海軍航空本部教育部長に就任し、「航空軍備ニ関スル研究」(1938年)と題したパンフレットを制作して広く配布している。海中にいる潜水艦を除き、航空戦力には海上の艦艇は対抗できないと説き、「空軍」の優位性を強く主張している。翌1938年(昭和13)になると、日中戦争の激化により欧米諸国の圧力から原油の輸入量が減少し、艦隊燃料や航空燃料も十分に確保できなくなっていった。そんな折も折、大西瀧治郎は「水からガソリンを製造する」という、幼稚な詐欺師にひっかかっている。ちょうど、上落合の大西邸が「火保図」に採取されたころのことだ。
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 最初に大西瀧治郎のもとへ、「水からガソリンを製造できる」という話を持ちこんだのは、街の「発明家」を自称する本多維富という人物だった。本多からどのようなプレゼンテーションを受けたのかは不明だが、なぜか大西は「できる」と信じてしまったようだ。大西は、この「発明」を海軍上層部にも報告し実験への立ちあいを求めたため、海軍次官の山本五十六や航空本部長の豊田貞次郎も巻きこまれている。もちろん水からガソリンを精製することなど不可能なので、周囲が実験に疲れた深夜をみはからって、本多が水とガソリンの容器をスリカエたところを見つかり、実験は「失敗」に終わった。
 大西瀧治郎は、教育部長名で「覚」書きとしているが、内容は明らかに海軍じゅうに配布した始末書で、彼が広範に本多の「ガソリン」詐欺を宣伝してしまったせいか、海軍ばかりでなく陸軍省や商工省、警視庁、憲兵隊にも「覚」書きと称する始末書を配布している。ちょっと興味深いので、大西の「本多氏発明ノガソリンノ特殊製造法実験ノ終結ニ際シ関係者ニ申渡シ覚」(1939年1月17日)から少し引用してみよう。なお、原文のカタカナでは読みにくいので、文章をひらがなに変換している。
  
 今回の実験に関する海軍側の責任者として本実験の成績を発表し併せて本件に関する海軍側の所見を伝達致します/本実験の経過はご承知の通り順調と言ひ難いものでありましたが兎に角十日に亘る実験の期間中に於て本月十日午前零時二十五分及同十五日午前二時五分の両回に各一回(容量四〇〇瓦薬瓶)宛ガソリン製造に成功したるが如き現象を見る事が出来たのであります、併しながら此の両回共内容物がガソリンに変化すると称せらる時機の前と後とに於て其の使用せられて居つた瓶が確実に変更せられて居つたのであります/此の瓶が変更せられて居つた点に関しては明確に之を証明し得る物的及人的証拠を有して居るのでありまして若し御希望ならば説明を致します
  
 書類名は「申渡シ覚」などといかめしいが、内容は“謙虚”で恥ずかしそうな文面なのがおかしい。最後に、各省庁が実験について「相当関心ヲ有シテ居ル様デアリマスカラ参考ノ為」といういいわけを添えて、上記の諸組織に「所見ヲ通知スル」と配布している。
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 1941年(昭和16)1月、山本五十六は日米開戦が不可避になった場合、真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲Click!することが可能かどうか、その作戦研究を大西瀧治郎へひそかに下命している。大西は、当時第1航空戦隊の参謀だった源田実に立案を任せたが、シミュレーション(図上演習)を繰り返した結果、日本は米国に勝てる見こみがまったくないので、米国を強く刺激するような真珠湾攻撃には強く反対したうえで、たとえ開戦することになっても米国との早期停戦・講和をめざすべきだと、山本へ答申している。
 日米開戦後の1942年(昭和17)に、大西瀧治郎は海軍航空本部総務部長に着任した。海軍の将官や政財界のメンバーを集め、同年4月に開催された「国策研究会」で講演し、「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの長と称する人々は単なる書類ブローカーに過ぎない。/こういう人たちは百害あって一利なし、すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦は即刻たたきこわして、その材料で空軍をつくってもらいたい。海軍は空軍となるべきである」と発言したらしい。
 当時の東條内閣Click!をはじめ、陸海軍の首脳部を無能でいらないと全否定の“暴言”を吐いて出席者を唖然とさせたが、特に処罰を受けることもなく不問にふされたとされている。だが、この国策研究会の講演記録が見あたらないので、この発言が事実かどうかは不明だ。のちに糧秣(食糧)や弾薬などの輜重計画をまったく考慮せずインパール作戦を発動した陸軍の上層部に対し、「でたらめな命令」「作戦に於て各上司の統帥があたかも鬼畜如きもの」と打電した佐藤幸徳中将は即時解任されているので、もし大西がそのような発言をしたとすれば、なんらかの処分が下されていたのではないだろうか。
 さて、1944年(昭和19)も秋になると戦局はますます不利になり、当時は第1航空艦隊司令官に就任していた大西瀧治郎は、比島(フィリピン)戦線において爆弾を抱き敵艦に体当たりをする「神風特別攻撃隊」を編成する。ちなみに、神風特別攻撃隊の命名も大西自身によるものだ。神風特攻隊については、あまたの書籍や記録映像、映画など膨大な資料があるので、詳細はそちらを参照していただきたい。だが、いくら神風特攻隊で数多くの若者の生命を犠牲にしても、戦局はまったく変わらず好転しなかった。
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 敗戦の翌日、1945年(昭和20)8月16日の未明に渋谷南平台の海軍官舎で、「多くの青年を死なせた」ことへの責任をとり割腹自決をはかったが介錯を断ったために死にきれず、同日の夕方まで重体のまま息があった。死後、庭木を伐採して造ったにわか棺桶に入れられた遺体は、自邸があった上落合の落合火葬場で荼毘にふされている。周囲の住宅街は一面の焼け野原で、上落合1丁目509番地の自邸もとうに灰になっていたが、落合火葬場はなんとか機能していた。航空機による攻撃の威力を、生涯にわたって唱えつづけた大西が、山手空襲により一面が焦土と化した上落合で焼かれるのは、なんとも皮肉な結末だった。

◆写真上:上落合1丁目509番地(現・上落合2丁目)の大西瀧治郎跡(画面左手)。右手の一画が八島太郎(岩松惇)のアトリエ跡で、正面は落合第二小学校(野々村邸跡)。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる大西邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された大西邸。は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲(4月13日)直前にF13Click!によって撮影された大西邸。
◆写真中下は、大西が海軍航空本部教育部長時代に執筆した『航空軍備ニ関スル研究』論文を紹介する「昭和十三年五月/支那事変一般記事」。は、大西瀧治郎()と1939年(昭和14)1月23日付けで海軍省から陸軍省に通達された「水ヨリ「ガソリン」ヲ製造スル実験ニ関スル通知」()。は、大西が書いた「申渡シ覚」=実質的な始末書。
◆写真下は、米艦へ突入する神風特攻隊の爆装零戦。は、特攻隊で被弾した米機動部隊。は、神風特攻隊の戦果を報じる「大本営一般特報170号」(1944年10月31日)。

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パナマ運河の設計図提出を拒んだ青山士。 [気になる下落合]

パナマ運河を通過するアイオワ級戦艦ミズーリ.jpg
 拙サイトへのべ2,300万人ものご訪問、ありがとうございます。休止中も、毎日さまざまなページへアクセスいただいていたようで恐縮です。重ねて厚くお礼申し上げます。
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 昭和に入ってからだが、下落合には土木建築家の青山士(あきら)が住んでいた。土木建築家Click!は、おもに社会インフラの大規模な建造物や構造物を設計・建設するのがおもな仕事であり、建物作品を設計・建設する建築家に比べて相対的に地味な存在だ。建築作品は人目を惹くが、社会インフラの建造物は「あって当たり前」あるいは「目に触れることがまれ」な存在であり、あえて“作品”として人目を惹くことはあまりない。
 現代でいえば、社会インフラ系のシステム開発あるいは基盤技術の設計・開発の技術者は目立たないが、その上に構築される多種多様なサービスやアプリケーションを開発・提供する技術者が、ICTの“花形”のように映るのと同様の感覚だろうか。基礎研究や基盤技術のR&Dが中心の「上流」開発と、個々のカスタマーやコンシューマーに接して目立つサービスを直接提供する「下流」開発にも、同じようなことがいえるかもしれない。
 青山士は、約8年間にわたりパナマ運河の設計・建設にたずさわった唯一の日本人技師であり、17年間にわたる荒川放水路の設計・建設を主導し、また信濃川の大河津分水路の改修工事も指揮した人物だ。つまり、現代の東京でいくら台風や大雨が降っても、隅田川Click!(大川または旧・荒川)が氾濫しないのは青山士が設計した荒川放水路(現・荒川)のおかげだし、パナマ運河を通過し大西洋の艦船が太平洋へと抜けられるのも、運河の少なからぬ部分の設計・建設を担当した青山士のおかげ……というわけだ。
 でも、パナマ運河を通過したり同運河のニュースに接するとき、または荒川放水路(現・荒川)を鉄道や自動車で越えるとき、あるいは信濃川の大河津分水路をわたるときに、あえて青山士の名を思い浮かべる人は、その専門分野の人でないかぎりほとんどいないだろう。それだけ、社会インフラを設計・建設する土木建築家は、必要不可欠な事業にもかかわらず地味で目立たない存在なのだ。
 青山士は、1897年(明治30)に第一高等学校Click!に入学すると、無教会主義のキリスト教者・内村鑑三Click!に師事している。彼が死去するまで謙虚かつ良心的で実直だったのは、内村の教えが多大に影響しているとみられる。こちらでも大正期から住んでいた、内村鑑三Click!の弟子である西坂Click!は下落合702番地の南原繁Click!たちが結成した、「白雨会」Click!メンバーの活動について少しご紹介しているが、青山士は彼らよりひとまわり上の世代であり、1900年(明治33)に東京帝大工学部土木工学科へ入学している。
 青山士が座右の銘としたのは、内村鑑三が『求安録』(1893年)で引用した英国の天文学者J.ハーシェルの言葉、「I wish to leave the world better than I was born.(生まれた世界をより良いものにして、わたしはこの世を去りたい)」だった。青山士の晩年、彼の事業や業績を記録して顕彰するために、下落合の自邸を訪ねてきた清水生の取材に対し、青山は次のように答えている。1942年(昭和17)に道路改良会発行の土木建築誌「道路の改良」9月号に収録された、清水生『内務技監の今昔(五)』から引用してみよう。
  
 過日平井君に遇つたら会で書いてゐる「内務技監と(ママ)今昔」と題する記事に付いて今度はあなたの番になるから清水と云ふ人が行くから会つて話してくれとのことであつたが、僕はその際に僕のことを書くのは棺桶に入つてからでよいだらうと云つて置いたやうな次第で、夫れは人の伝記や批判又は功罪と云つたやうなものを書くのは生前の人では却々書きにくいものであるからそう云つたのであつた。
  
 「平井君」は、帝大の土木工学科で後輩の平井喜久松だと思われるが、いかにも歯の浮くような阿諛をともなう顕彰を嫌う、内村鑑三の弟子らしい答えだ。
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 青山士は、1903年(明治36)に東京帝大を卒業すると、恩師である廣井勇教授の勧めでパナマ運河の設計・建設のため、コロンビア大学の教授への紹介状を手に米国へ単身わたっている。このときの渡航は自費で、肉親から100円を借り、廣井教授の紹介で大倉喜八郎Click!から渡航費100円の借金をして出かけている。
 このあと、さまざまな経緯をへて青山士はパナマ運河の設計・建設に参画するのだが、スエズ運河を開拓したレセップスがパナマ運河の建設にも挑戦して二度とも失敗している経緯をみても、同運河の建設は困難につぐ困難をきわめた。パナマは高温多湿で、マラリアや黄熱病など伝染病の蔓延に加え、建設予定地のけわしい地形とともに最悪の開発現場だった。約8年後の1911年(明治44)、パナマ運河の建設が80%ほど進んだところで青山士は帰国している。米国における反日感情の高まりから、軍事的にも重要なパナマ運河で、日本人の土木設計技師を雇用しているのが困難になったからだといわれている。
 帰国後の青山士は、内務省で技師の手腕をふるいはじめる。隅田川(大川)の氾濫を抑え、市街地の洪水を防止する荒川放水路の設計・建設や、“あばれ川”といわれた信濃川の治水工事などをへて、同省の内務技監のポストについている。
 この青山士の経歴に目をつけたのが、米軍を相手にあちこちで苦戦や敗退を繰り返していた軍部だった。実質の引退生活を送っていた下落合の自宅へ、1943年(昭和18)にひとりの海軍少尉が訪れて、パナマ運河の設計図の提出を要求した。青山士は拒否しているが、おそらく内務省つながりの特高Click!か、あるいは憲兵隊に圧力をかけられたものか、最終的には強制的に設計図を事実上“没収”されている。
 その様子を、2010年(平成22)発行の「近代日本の創造史」第10号(近代日本の創造史懇話会)に収録された、石田三雄『明治の群像・断片【その4】』から引用してみよう。
  
 晩年の青山にとって大変つらい出来事があった。太平洋戦争中のことである。昭和18年の秋、東京下落合の自宅に一人の海軍少尉が訪問してきた。最近開発した超大型潜水艦に折りたたみ式の爆撃機を搭載して、パナマ運河を爆撃しようという秘密計画があり、「そのためにパナマ運河の詳細を知りたい。ついては運河の設計図などを提供してほしい」というのが用件であった。青山は、「私は運河を作るためにパナマに行った。壊すためではない」と答えて、いったんお引き取り願った。しかし「国のため」という要求に抗することができず、最後には海軍は貴重な図面を手にすることになった。そのころ退却に退却を重ねていた日本軍には、すでに計画を実行する余力はなかったのだが。灼熱地獄のパナマの難工事を思い出して、青山はきっと一人で涙を流していたに違いない。
  
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 海軍のパナマ運河爆撃とは、「超大型潜水艦」=潜水空母「伊400型」に爆撃機「晴嵐」×3機を搭載して太平洋を横断し、パナマ沖から爆撃機を発進させて同運河を空襲するという、当時の戦況からみればほとんどSFに近い無謀な計画だった。伊400型潜水空母は、6,000トン(水中)を超える軽巡洋艦なみの大型潜水艦で、途中の給油もなしに太平洋を米軍に発見されないで横断することなど、制海権や制空権を奪われている当時の戦況からみてありえない作戦だった。
 日本海軍がパナマ運河の爆撃にこだわったのは、米国の東海岸にある造船所で建造された艦船、あるいは大西洋に展開している米国艦隊が、太平洋へ短期間で回航されるのを阻止する目的があったのだが、とうに戦機を逸した不可能な計画だった。
 また、パナマ運河は米国の艦船建造にも多大な制約や影響を与えている。パナマ運河を通行するためには艦船の全幅が制限されるため、米海軍は40センチ×3連装(アイオワ級戦艦Click!)以上の主砲をもつ戦艦を建造できなかった。「大和」型戦艦Click!(46センチ砲×9門)のように、それ以上の主砲を搭載するためには、主砲斉射時の衝動や転覆のリスクを防ぐために、艦船の設計幅をより大きくとらなければならないが、その代償としてパナマ運河を通行できないという深刻なジレンマを抱えていた。
 結局、日本海軍はパナマ運河の爆撃を中止した(中止せざるをえなかった)が、敗戦時の青山士の心境は複雑だったろう。自身が設計・建造にたずさわったパナマ運河を通行して、機動部隊を中心に米艦隊が続々と太平洋に展開し、日本を敗戦へと導いたかたちになったからだ。1948年(昭和23)、彼は家族とともに下落合を離れ、生まれ故郷の静岡県磐田市にある実家で静かに息を引きとっている。
 さて、下落合の青山邸はどこにあったのだろうか。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、「青山」の名前がひとり採取されているが、下落合426番地の青山家は町会議員をつとめる佐賀県出身の家系であり無関係だ。おそらく、1935年(昭和10)前後に下落合へ転入してきている可能性が高いのだろう。
 青山士が、利根川治水専門委員をつとめていたのが1935年(昭和10)、つづいて神宮関係施設調査委員の仕事をしていたが、1936年(昭和11)11月に依願退職している。下落合に自邸をもち、引退後の生活をつづけるようになったのはこのころからではないだろうか。そのような仮説を立て、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をしらみつぶしに探してみると下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)、すなわち第二文化村Click!の安藤又三郎邸の東隣りに青山邸を見つけることができる。
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 現在の家並みでいえば、石橋湛山邸Click!の東隣り、または安倍能成邸Click!の斜向かいの位置に相当する。この敷地は、大正期の「目白文化村分譲地地割図」(1925年)では山田邸であり、大正末から昭和初期にかけては山中邸、その後は敷地が2分割されたようで青山邸ともう1邸になっている。はたして、引退した青山士の下落合邸はこの屋敷だろうか……。

◆写真上:パナマ運河を通過するアイオワ級戦艦「ミズーリ」で、3連装の40センチ主砲9門を装備した同型艦が、同運河を通過できる戦艦の最大サイズだった。
◆写真中上は、工事用の鉄道が通うパナマ運河の工事現場で、深く掘削した崖下には複数のトロッコ軌道が敷かれているのが見える。は、パナマ運河の建設にたずさわる土木建築技師たちで、前寄りの中央が若き日の青山士。は、大正期に撮影された荒川放水路の工事現場と、1924年(大正13)の竣工時に撮影された記念写真。
◆写真中下は、パナマ運河爆撃用に設計された伊400型潜水空母。は、戦後の米軍摂取時に横須賀で撮影された伊400型潜水空母のカタパルトと爆撃機格納庫。右手に見えるのは敗戦時、海上に浮かんでいた唯一の戦艦「長門」で水爆実験場であるビキニ環礁へ向かう直前の姿。は、伊400型潜水空母の搭載用に開発された爆撃機「晴嵐」。
◆写真下は、1939年(昭和14)に出版された青山士『ぱなま運河の話』(私家版/)と著者()。は、日本海軍が青山士から“没収”したパナマ運河平面図の一部。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1712番地(第二文化村)の青山邸。

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